レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/09/06
- 登録日時
- 2019/09/13 00:30
- 更新日時
- 2019/09/13 00:30
- 管理番号
- 滋2019-0002
- 質問
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解決
「紹巴富士見道記」に書かれた野州鹽石が、どんな石か知りたい。
また、どのように使ったか、文献があれば併せて知りたい。
野州鹽石の『紹巴富士見道記』 掲載箇所
「朝より岡崎に足をやすめ侍るに。誓願寺五日に一折とて。
ご城内にして野州鹽石をたかせ。御門前に湛たる潮を汲ませ給へり。」
- 回答
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野州鹽石は、「紹巴富士見道記」が収録された『中世日記・紀行文学全評釈集成』 第7巻の注記では、次のように書かれていました。
①野州?緒川城・刈谷城城主の水野信元(?~天正三[一五七五])。忠政の息。
②鹽石?刈谷城西方の生路(東浦町)は、平安期より製塩地として知られていた。
また、『紹巴富士見道記の世界 』や論文「紹巴の旅」において、野州鹽石の使用方法等が載っています。
①『紹巴富士見道記の世界 』 289頁
「(以上略)『尾張名所図会』では、生路塩(東浦町生路)につき、「塩鹽石」の事を、塩を焼く所にはこの石があって、塩を焼く時竈の底に敷き、暫くすると塩が凝固して石に粘着して石に粘着するという記事があり、(後略)」
②論文「紹巴の旅 -『紹巴富士見道記』をめぐって-(1)」 49頁
「ところで帰路では、七夕の日に刈谷城で城主の水野信元自らが、塩石を焚かせ城の門前の海水を汲んで、土地の名産である塩の製法を披露し、鯉魚などを馳走して紹巳らを饗応するさまが記されている。」
なお、「野州」は、『大日本地名辞書』によると、「下野国……(中略)下野は中古以来修して野州(ヤスウ)、
又下(カ)州とも云へり、其野州の唱呼、最広く行はる。」との記載されており、また、『コンサイス日本地名事典(第5版)』では、「→しもつけ(栃木県)」とあることから、「しもつけ」は「栃木県全域を占める旧国。……(中略)【別称】野州(やしゅう)」と書かれています。
また、德川家康の伝記である『武徳編年集成』によれば、「然ル所ニ参州碧海郡刈屋ノ城主水野下野守信元ヨリ浅井六之助道忠ヲ以テ義元ノ戦死ヲ告且明日信長来リ攻ベシ夜中城ヲ避テ帰国セラルベキ旨ヲ達ス 神君(※家康のこと―引用者註) 日野州ハ叔父ト雖織田方也必シモ信ス ベカラズトテ先道忠ヲ虜ニシ 其実ヲ得テ去ベキ旨ヲ宣フ」とあり、家康は叔父にあたる水野信元のことを「野州」と呼んでいます。
- 回答プロセス
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OPCAで依頼者の資料を検索し該当資料の内容調査。また、「野州」は大日本地名辞書等で調査
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 8版)
- 参考資料
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- 1 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 L-0300- 84
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2 近江の平成雲根志 福井龍幸∥著 サンライズ出版 2018.2 S-5600- 18 -
3 中世日記・紀行文学全評釈集成 第7巻 廻国雑記 九州下向記 九州の道の記 佐野のわたり 紹巴富士見道記 楠長諳九州下向記 東路のつと 武蔵野紀行 宗長日記 勉誠出版 2004年 3-9154-7 p.219 -
4 紹巴富士見道記の世界 内藤佐登子∥著 続群書類従完成会 2002年 3-9154-サ p.289 -
5 紹巴の旅 -『紹巴富士見道記』をめぐって-(一) 『学苑』 (762), 42-52 昭和女子大学 2004.3 昭和女子大学学術機関リポジトリにて公開 -
6 武徳編年集成 上巻 木村高敦∥編 名著出版 1976年 2-2100-キ p.54(「野州=水野信元) -
7 大日本地名辞書 第1巻 汎論 索引 吉田東伍∥著 冨山房 1980年 R-2910-1 p.616(「野州」=下野) -
8 大日本地名辞書 第6巻 坂東 吉田東伍∥著 冨山房 1980年 R-2910-6 p.886(同上) -
9 コンサイス日本地名事典 三省堂編修所∥編 谷岡武雄∥監修 三省堂 2007年 R-2910-コ p.612,1242(同上) -
1 戦国大名論集 12 徳川氏の研究 吉川弘文館 1983年 2-2104-12 p.42(『武徳編年集成』の史的考察)
- キーワード
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- 野洲
- 野州
- 塩石
- 鹽石(コセキ)
- 紹巴富士見道記
- 里村紹巴
- 水野信元
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000261330