レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2023/07/01 00:30
- 更新日時
- 2023/09/03 14:40
- 管理番号
- 滋2023-0035
- 質問
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解決
陶芸家バーナード・リーチが幼少期に暮らした彦根での交流について知りたい。
記録によると「リーチの祖父、ハミルトン・シャープは、宣教師の傍ら、旧制彦根中学校(現・彦根東高校)で英語の教師を務め、リーチと共に学校隣の官舎で過ごした。」「リーチは、明治21年8月31日にシャープが教師を退任すると同時に京都に移り住み、同24年まで日本で過ごした。」とありますが、①具体的な英語教職の期間、②人物写真、③住所、④家族に関して、記された資料を知りたい。
なお、以下の資料については確認済です。
1.滋賀彦根新聞の記事を閲覧しました。2016年9月13日火曜日
「幼少期を彦根で過ごした20世紀の英国を代表する工芸家のバーナード・リーチの作品展 県立近代美術館で」
2.バーナード・リーチ:Wiki
3.『The Directory & Chronicle for China, Japan, Corea, ...』 - 653 ページ 1892に Missionary Hamilton Sharp Kyoto”宣教師 ハミルトン・シャープ 京都”の記録がある。
- 回答
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1.祖父のハミルトン・シャープの彦根滞在時の英語教職の期間、期日について
明治20年(1887年)3月30日から明治21年8月31日でした。
その根拠は以下のとおりです。
就任については、『滋賀県百年年表』に「明治20年(1887)丁亥 (略) 3・30 文 県尋常中学校に英国人ハミルトン・シャープを雇入れる3」と書かれています。凡例によると、この「文」は「学術・教育・文化活動・(略)その他これに類するもの。」とあり、引用文最後の文字「3」は出典番号のことで「滋賀県公報(明治19より県刊)」でした。(注1)
また、『日本の歴代知事』第2巻下の「中井弘」の頁にある「治績」にも「明治二十年(略)3 30県尋常中学校に英国人ハミルトン・シャープを招く」と記されています。
退任については、『バーナード・リーチ』の「第4編リーチ評伝式場隆三郎 日本に来る迄」の章にある「註解」に、「退職は明治二十一年八月三十一日」と書かれています。
また、『彦中五十年史』の第三編 明治時代後期の章の「職員生徒」の項に、「教員(略)ハミルトン・シャープ」とあります。
2.祖父のハミルトン・シャープの彦根滞在時の人物写真について
『バーナード・リーチ』にバーナード・リーチと祖父母との写真が2枚掲載されています。1枚は92頁の「3歳のリーチ(1890年1月1日)」(京都市寺町通高辻北にて撮影)、2枚目は93頁に「5歳のリーチ(1892年5月)」(人力車に乗った祖父母とリーチ等の写真)が載っています。写真の注解には、「5歳のリーチ」は彦根のシャープの住宅前で撮影したと説明しています。
3. 祖父のハミルトン・シャープの彦根滞在時の住所について
滋賀縣犬上郡彦根五番町の辺りと推測されます。なお、明治8年当時の住所表記です。
その根拠は以下のとおりです。
『バーナード・リーチ』の「第4編リーチ評伝式場隆三郎 日本に来る迄」の「註解」に、「シャープは(略)中学校の隣に住んでゐた。」と記されています。
その中学校は彦根中学のことで、『彦中五十年史』の第二編 明治大前期の章の「彦根學校の創立」によると、「(略)明治八年十月いよゝ[繰り返し]新立學校は、彦根町字五番町(元川町)に敷地九百三十坪を買入れて建築することに決し、直に工事に着手するに至った。」とあり、同様のことが滋賀県立彦根中学校校友会編輯の『記念号』にも「滋賀縣立彦根中學校一覧 本校沿革 明治八年十月菖彦根藩主井伊直憲伯以下有志者醵金して新に校舎を滋賀縣犬上郡彦根五番町に建築仝[同の旧字体]九年六月に落成す校名を彦根學校と稱し(以下略)」と書かれています。
4.バーナード・リーチの父の記録について
いくつかの資料に書かれています。なお、以下の括弧は掲載箇所の節タイトルです。
① 『バーナード・リーチ』(「第4編リーチ評伝式場隆三郎 日本に来る迄」の「式場博士の伝記的質問への解答 一九三三年秋 バーバード・リーチ手記」)
「私の実母の家名はシャープ(Sharp)と称んだ、私の継母と同じ名前である。(略)私の母は彼女の唯一の子どもである私を産むと同時に死んだ、それは一八八七年香港に於いてであって、その土地で私の父は弁護士をやっていた。(以下略)」
② 『バーナード・リーチの生涯と芸術』(「第一章 一九世紀と二十世紀の狭間 ‐生い立ちから訪日まで 一八八七~一九〇九年」)
「父親のアンドルー・リーチ Andrew John Leach(一八五二~一九〇四)はオックスフォード大学出身の法律家で、弁護士から裁判所の判事になった。(2) 両親は共にアングロ・ケルト系だという。(以下略)」
なお、引用文中の(2)は注釈で、「(略)「座談会 リーチさんを囲んで」『民藝』一〇七号(一九六一年一一月)一一頁」を挙げています。(注2)
③ 『現代の陶匠』(「バーナード・リーチ」)
「バーナード・リーチの人と仕事に、「父はアンドリュウ・リーチと言ひ、弁護士でありました。(略)父は間もなく再婚し、バーナードを香港に呼戻しましたが、(以下略)」、「リーチさんは、一八八七年(明治二十年)に香港で出生。父君は裁判官を勤め、ANDEW(原文ママ) JOHN LEACHと言つた。」
同書は出典先として『バーナード・リーチ』を取り上げています。
5.その他(追加事項) 祖父のハミルトン・シャープについて
『バーナード・リーチ』の「第4編リーチ評伝式場隆三郎 日本に来る迄」の「式場博士の伝記的質問への解答」には、ハミルトン・シャープの調査結果も註解に載せています。
「Hamilton Sharp,母方の祖父。
(略)シャープは同志社には直接関係はなく、第三中学(第三高等学校の前身)に暫く英語の教師をして、それから彦根中学へ赴任し英語の発音を受持っていたらしい。(略)十年四月の記録に(同校にはそれ以前の記録なし)既に名が出ているという。(略)
速水正伯氏の語る所によれば、明治二十年か二十一年頃から就職し、シャープ夫妻の他に二十四五歳の娘さんと三人暮しで、皆日本語が達者であった。」
続けて、ハミルトン・シャープの性格、彼と面識のあった元彦根中学生からの聞き取りやエピソード等も記されています。
6.その他(追加事項)司馬遼太郎の推測‐祖父のハミルトン・シャープについて
司馬遼太郎はハミルトン・シャープが彦根中学に就任した理由について『街道をゆく』24巻「近江散歩奈良散歩」に次のように書いています。
「私はリーチについての十分な資料を持っていないため、祖父のシャープの履歴を知らないが、 (略)県下唯一の「尋常中学校」が誕生するのは、明治二十年、彦根中学校の設立からである。ハミルトン・シャープが京都から彦根へ移るのはこの「県下の最高学府」に招聘されたからだと想像しているが、(以下略)」とあります。
※『バーナード・リーチ』は旧字体のため、引用文は新字体に置換して表記しています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 1 滋賀県百年年表 滋賀県史編さん室∥編 滋賀県 1971年 S-2600- 71 p.34
- 2 日本の歴代知事 第2巻下 歴代知事編纂会∥編集 歴代知事編纂会 1981年 5-2800- 81 p.134
- 3 彦中五十年史 滋賀縣立彦根中學校同窓會∥編 滋賀県立彦根中学校同窓会 1937年 S-3751- 37 p.87,160-161
- 4 バーナード・リーチ 式場隆三郎編 建設社 1934 当館未所蔵 p.537,557~558,写真箇所:p.92,93
- 5 記念号 滋賀県立彦根中学校校友会∥編輯 滋賀県立彦根中学校校友会 1910年 5-2051- 10 p.11
- 6 バーナード・リーチの生涯と芸術 鈴木禎宏∥著 ミネルヴァ書房 2006年 3-7513-リ p.3
- 7 現代の陶匠 水尾比呂志∥著 芸艸堂 1979年 2-7511-ミ p.128,158
- 8 街道をゆく 24 近江・奈良散歩 司馬遼太郎∥著 朝日新聞社 1988年 G-9156-シ p.98
- キーワード
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- バーナード・リーチ
- 祖父
- ハミルトン・シャープ
- 彦根中学校
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000335164