レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年10月18日
- 登録日時
- 2017/02/15 14:27
- 更新日時
- 2023/05/09 12:24
- 管理番号
- 青梅1610-004
- 質問
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解決
「吉野梅郷」の吉野は奈良県の吉野にちなんで名づけられたと聞いたが、いわれを知りたい。
- 回答
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以下の資料を提供した。
【1】『かみごう郷土小誌』
p.7- 「かんさす」明治17年、下村はこの付近一帯に桜の木数千本植え、新吉野の再現を試み、、、
p.16- 1558年(永禄 元)産業振興のため梅が植えられた。
p.23- 1889年(明治22年)地蔵尊の台座に吉野村名の由来を刻む。
【2】『青梅歴史物語』
p.244- 下 明治22年制町村制施行時の七か町村 「吉野村」
p.245- <吉野村> 新しい村の誕生に当たり、初代の村長川上郡三氏は桜の木をたくさん植えて、吉野村と命名することにした。
p.246- 愛宕山等の峯につらなる御岳山は、古く、大和の吉野をかたどったものと言われ、、、(中略)「御岳菅笠」には、三吉野(みよしの)の御岳山(みたけやま)とはここかよと、、(中略)千本(ちもと)の桜咲きみだれ、、、
p.246- 写真「吉野村の由来を刻む地蔵塔(大聖院)」と説明文あり。
【3】『青梅市史 下巻』
p.215- 「梅」これも江戸時代から下村(梅郷)付近のが有名であった 14行目~「『皇国地誌』には(中略)当時の梅の名所であった」とあり。
【4】『御岳菅笠』
p.6- 三芳野(みよしの)の御岳山とは、こゝかよと、(中略)千本(ちもと)の桜咲きみだれ、、、
- 回答プロセス
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『かみごう郷土小誌』、『青梅歴史物語』を確認した。
『かみごう郷土小誌』に、明治17年当時下村の戸長だった川上郡三氏が新吉野の再現を試み桜の木数千本を植えたという記述があった。
『青梅歴史物語』に、その後、明治22年に町村制の施行により下村、畑中村、日影和田村、柚木村と併合して新しく誕生した村に初代村長となった川上氏が「吉野村」と命名したという記述があった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 関東地方 (213)
- 日本 (291)
- 参考資料
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- 【1】渡辺 友一郎/編. 『かみごう郷土小誌』. 渡辺友一郎, 1990. p.7.16.23 (当館請求記号 L213.6/04, 当館資料番号 2900772654)
- 【2】青梅市教育委員会. 『青梅歴史物語』.青梅市教育委員会, 1989.p.244.245.246 (当館請求記号 L213.6/00, 当館資料番号 2900804754)
- 【3】青梅市史編さん委員会/編集. 『青梅市史 下巻』.東京都青梅市, 1995. p.215 (当館請求記号 L213.6/00, 当館資料番号 0102712304)
- 【4】『御岳菅笠』. 武蔵御嶽神社社務所, p.6 (当館請求記号 L291.3/09, 当館資料番号 100640101)
- キーワード
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- 青梅市
- 歴史
- 吉野街道
- 梅の公園
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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2023年4月27日追記
『吉野村史』 鈴木 善勝/著 2017.(L213.6/04)当館資料番号2900936150
p.9-12「吉野村の名前の由来」
『東京のんびり20選』 はむら自然友の会/編 1994.(L291.3/20) 当館資料番号0100625664
p.96- 「梅の里」は、「桜の里」を目指していた
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000209831