レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2003/08/12
- 登録日時
- 2004/03/06 19:52
- 更新日時
- 2004/04/08 10:11
- 管理番号
- 土木図書館-0018
- 質問
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「幕末~明治初期頃の一般的な土木作業量(人夫一人、1日あたり)に関する文献。1950年前後の高専教科書『土木工学・・・基礎編』に掲載されていた可能性あり」
- 回答
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調査結果は次ページの通りです。明確に土木作業量がどの程度か示しているもの、あるいはそれについての研究論文などは見当たりませんでした。また、高専教科書はこちらでは所蔵しておりません。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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1.『建設労働論』著者:内山 尚三 出版者:都市文化社 出版年:1983年
この中の、第1部第1章第1節「封建職人社会解体後における建築職人の労働条件と生活状態」p4に、労働時間についての記述があります。
「しかしその労働条件は、いろいろな点で封建時代のそれを継承するものであった。
たとえば労働時間についてみれば、一般に「七字出五字引」の10時間労働であり、中食及び午前午後の休憩が2時間、実働8時間というのが普通であった」
その他大工、石工、屋根職、壁職、瓦葺職の賃金比較などが述べられています。
なお、参考文献には隅谷三喜男『日本賃労働史論』などもあがっていますが、こちらでは所蔵していないので、内容確認はできておりません。
2.『日本土木史研究発表会論文集』8巻 1988年211-217頁の論文
「吉野川の歴史(その8) -吉野川の治水に導入された労働量-」
著者(和):澤田 健吉
抄録(和):
「吉野川の歴史というテーマでいろいろな視点から考察を重ねてきたが、今回は労働量の面から吉野川を見ることにした。川を治めるのに厳しい労働があったのは、抽象的な表現ではいろいろ言われているが、定量的に表現されたものを見るのは容易ではない。考察の基礎になるデータは明治の始めに実施された一種の国勢調査の結果と言える郡村誌で、これから堤防の断面形状が計算出来、これとその地点の自然的条件の関係、また堤防築造土量の計算結果と社会的自然条件の関係などを検討した。次の資料は第一の支川鮎喰川の浚渫の記録で、これから普請に動員される労働力の配分における争点と慣例を知ることが出来る。第十堰は吉野川第一の河川施設だが、この場合は幕末期に藩から出た維持費の補助、明治になってからの地元負担の高低の関係が検討出来るにとどまっている。その他近接する勝浦川の浚渫普請の人夫割り付け帳などがあり、割り付けの慣例がわかる。別の考察としては、やや強引だが今日のデータから推定した米作と土工の歩掛を尺度として、農耕作業と川普請の負担の大小の比較を試み、後者の影響の大きさをみた。」
この中で、堤防築造と農作業の労働量を比較した個所があります。算出根拠について述べた後「堤防の工事量が農作業量の7年分に当たることを示している」
(p213)など。但し1日あたりの労働量には触れていません。面白いのは「堤防を作る土工」については日本道路協会『道路土工指針』の「人力土工の作業能力の算定」を参考にしているところで、確かに地面を掘る(掘削)ことや土を運ぶ(運搬)ことや土を盛る(盛土)ことの能力は差がないと言えばないかもしれません。
(例えば、「くわ、熊手使用程度のレキ質土」の床掘り(深さ1mを標準)の場合、0.5人日/㎡という単位となっています。1日一人あたり0.5㎡の労働量ということになり、これは幕末も現在も同じとみなせるというわけですね)
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1.『建設労働論』著者:内山 尚三 出版者:都市文化社 出版年:1983年
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000001695