レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/08/01
- 登録日時
- 2015/10/09 00:30
- 更新日時
- 2015/10/09 00:30
- 管理番号
- 滋2015-0024
- 質問
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解決
イチョウの精子の発見で知られる平瀬作五郎が、1897年に彦根中学へ転出したと記述されている資料がある。
このことについて、彦根中学の正式な校名と現在の学校名、平瀬氏の在職期間、教えていた教科や人物評価などを知りたい。
- 回答
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『彦根東高百二十年史』によりますと、「植物学者 平瀬作五郎」という項目があり、滋賀県尋常中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)に1897~1904年まで勤務していたことがわかります。同書の年表によると、1898(明31)年2月15日滋賀県第一尋常中学校、1899(明32)年4月1日滋賀県第一中学校、1901(明34)年6月8日滋賀県県立第一中学校と改称されています。
教えていた教科については、同書によると「平瀬作五郎(一八九七年着任、一九〇四年退任)は博物、図画を担当する「教諭心得」であったが、(後略)」とあります。また、人物評価について「平瀬の授業ぶりは強い印象を与えるものであったらしいが、課外活動にもことのほか熱心であったようで、崇廣会陸上運動部の部長も務めている。一九〇一年(明治三四)に入学した森荘三郎(旧姓野間、第一八回卒)は、後年、次のように回想している。 平瀬先生は『健全なる精神は健全なる身体に宿る』と云うことを常に口にせられ、身を以て吾々を体育方面にもご指導くださいました。(後略)」とあります。
また、『「イチョウ精子発見」の検証』には、「都落ちの傷心」として彦根時代の平瀬氏についての記述があり、巻頭には職員室で執務中の作五郎の写真が掲載されています。
『いちょう物語』には、「先生の彦根中学校時代の教え子の中には、先生が嵐の晩に此樹の頂上に、縄で自分の身体を縛りつけて銀杏の受精の様子を観察されていたという人が居る。」とあります。
- 回答プロセス
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平瀬作五郎
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (281 8版)
- 参考資料
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- 1 彦根東高百二十年史 彦根東高等学校校史編纂委員会∥編集 滋賀県立彦根東高等学校創立百二十周年記念事業実行委員会 1996年 S-3751- 96 p.246,248,1311-1312
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2 「イチョウ精子発見」の検証 本間健彦∥著 新泉社 2004年 2-2891-ヒ p.220-225 -
3 いちょう物語 末松四郎∥著 末松修∥著 金亀会 1970年 5-3751- 70 p.3
- キーワード
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- 平瀬作五郎
- 滋賀県立彦根東高等学校
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000182252