レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/07/01
- 登録日時
- 2015/08/14 00:30
- 更新日時
- 2015/08/14 00:30
- 管理番号
- 滋2015-0015
- 質問
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解決
甲賀の人「梅田杢之允(木工)治忠」について知りたい。
石碑があるとも聞いたが、どこにあるのか知りたい。
- 回答
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『甲賀郡志 上巻』の「第六編 町村」の「第十三章 油日村 第一節 油日」に、「(前略)天正十三年水口岡山城主中村一氏の領邑に帰し尋いで増田右衛門長盛、長束大蔵大輔正家之を領し、慶長五年徳川氏の直属となり二分して一は竹林左衛門、梅田杢之丞、望月助之丞、山中治左衛門、瀧勘左衛門、和田善左衛門、山岡太郎左衛門等の俸邑となり、一は幕領に属し(後略)」とあります。
また、『甲賀郡志 下巻』の「第二十編 人物」の「第十三章 油日村」に「梅田治俊」の章があり、「治俊は本郡田緒野今油日村大字に生まれ通称杢之丞と云う。年長じて諸方を周遊し知名の剣客を歴訪して刀法を学び、数年の後本心鏡智流槍法の大家樫原重俊の門に入り一意研究して怠らず其の技術大に進めり。」とあり、慶長五年八月家康と上杉景勝の戦で治俊が戦死したので、「子治忠父の名を襲ぎて杢之丞と?し麾下の士たり。天和二年八月一日碑を田緒野に建て冥福を修む。宝歴の頃江戸に木川正信と云うものあり樫原氏の門人にして名声都下に鳴る。治忠請うて其の弟子となり研究すること十余年此技を以て名を海内に顕さんと意を決し油日神社に祈願する(後略)」とあります。
『田緒野誌』の「17.田緒野のむかし話」に「槍の名人、梅田勝右エ門さん」の章があり、「長福寺観音堂の西側に梅田勝右エ門さんの石碑が祭られている。この石碑は天正年間に上田緒野(旧宏陽産業跡地)から移転されたもので(中略)息子、治忠は父(治俊)の名を襲いで杢之允と称し、麾下の士となり、天和2年8月1日、田緒野に碑を建て冥福を祈る。(後略)」とあります。同頁に「梅田梅田勝右エ門さんの碑」の写真が掲載されています。
『ふるさとあぶらひ』の「第二章沿革 五、甲賀武士と油日」の「槍の奉納」の章があり、「梅田治忠 杢之允と称す、父治俊は諸国剣客を歴訪して神道流槍術の師樫原重俊の門に入って県債を重ね槍術の極意を修得、徳川家康の麾下となり千六百年伏見城で憤死した。その子治俊も木川正信の門入り鍵槍の術を研鑽すること十数年父治俊に劣らぬ名人たらんとして油日神社に十数日の祈願をした、遂に本心鏡智流を創始、槍術の大家となった人である。」とあります。
『甲賀町史 資料編』の「人物誌」の「十二 田緒野」に「梅田治俊・治忠」の章があり、上記の資料と同様の解説の後、「長福寺境内に梅田父子の石碑が建立されている。」とあります。
なお、『日本武道全集 第7巻』同朋舎出版1982年刊、『日本武道全集 第6巻』人物往来社1967年刊にも梅田治忠の記述が見られます。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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- 1 甲賀郡志 上巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-1 p.356-357
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2 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育会∥編 名著出版 1971年 S-2130-2 p.1377 -
3 田堵野誌 [正] 甲賀町大字田堵野∥編集 甲賀町大字田堵野 1993年 SB-2135-1 p.68-69 -
4 甲賀人物誌 人物誌編集委員会∥編集 甲賀町教育委員会 1980年 S-2835- 80 p.31-32 -
5 甲賀町史 資料編 甲賀町史編纂委員会∥編集 甲賀町 1994年 S-2135-2 p.343-344 -
6 ふるさと油日 [油日創意と工夫の郷づくり委員会]∥[編集] 油日創意と工夫の郷づくり委員会 1998年 S-2135- 98 p.82 -
7 日本武道大系 第7巻 槍術・薙刀術・棒術・鎖鎌術・手裏剣術 今村嘉雄∥[ほか]編 同朋舎出版 1982年 2-7890-7 p.352-363 -
8 日本武道全集 第6巻 槍術・薙刀術・棒術・他諸術 今村嘉雄∥編者代表 人物往来社 1967年 2-789*-6 p.133-148
- キーワード
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- 甲賀
- 梅田杢之允
- 槍術
- 石碑
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000178375