レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2023/07/01 00:30
- 更新日時
- 2023/09/08 12:27
- 管理番号
- 滋2023-0008
- 質問
-
解決
江州彦根の、飯沼慾斎門人の澁谷周平、滋賀平民で文久三年(1863)生まれ帝大医卒の澁谷周平、谷鐵臣(1822~1905)の医学修行について知りたい。
1)飯沼慾斎門人の澁谷周平について生没年・略歴を知りたい。
2)江馬塾の『門人姓名録』にある澁谷周平について生没年・略歴を知りたい。
3)滋賀平民で文久三年(1863)生まれ帝大医卒の澁谷周平について知りたい。上記2)・3)の澁谷周平との関係についても知りたい。
4)谷鐵臣(1822~1905)の医学修行について知りたい。また澁谷周平の長子とあるがどの代の澁谷周平なのか教えていただきたい。
●その質問の出典や情報源、調査済み事項など
1)『江馬家来簡集』に「澁谷周平江州彦根医師男、号如是山人、在西京、二男秋蔵後称周平継承」とある。天保十年(1839)二月廿一日に江馬春齢宛に門人児玉文禎入門に関する書簡を書いた澁谷周平の二男秋蔵が後澁谷周平を継いだことがわかる。
2)秋蔵(後澁谷周平)の江馬塾入門時の記載に「江州彦根東新町秋平男、澁谷秋蔵、後改秋平古人」とあり、安政三年(1856)五月廿四日に入門している。
3)『日本杏林要覧全』(明治42年)に「学士廿二年六月、滋賀平民、文久三年生、尾上町三ノ三十四、△三六五」と記載あり。また明治29年(1896)12月11日~明治35年(1902)4月23日まで佐賀県立病院好生館初代館長、その後一時武雄市で開業後、横浜へ転居(『佐賀医人伝』2018年)。明治45年(1912)2月~大正9年(1920)2月まで横浜市医師会第5代会長(横浜市医師会HP)。
4)『江馬家来簡集』(1984)・『明治維新人名辞典』(1982)・『彦根観光ガイドHP』等に記載があるが、どの澁谷周平の長子であるか不明。また別に、『幕末維新人名事典』(1994)には「町医谷周平の長男」とあるが、誤りか。
- 回答
-
【澁谷周平、谷鐡臣に関する記述】
主に滋賀県内で刊行された資料として次のものがあります。
・『現代滋賀縣人物史 坤巻』p.896-897に、「長春堂醫院主 澁谷周平君」として紹介されています。
同書によると、帝国大学医科を卒業後、「島根廣島兩院副院長」「佐賀縣立病院長」を経て、横浜にて「長春堂醫院」を開業したようです。また、「・・・[明治]二十一年帝國大學醫科を卒業す、此問學資を伯父谷鐡臣に仰ぐ、・・・」とあり、谷鐡臣との関係が示されています「家代々醫を業とし、父祖以來長春堂と號す、・・・」と澁谷家について紹介しています。
・『彦根の先覺』17-19頁に、「彦根藩の外交を引き受けた 谷鉄臣(てつしん)」として紹介されています。
・『滋賀県史 第4巻』63-64頁にも、記述があります。
なお当館未所蔵ですが、国立国会図書館デジタルコレクションに公開されている資料として、次のものがあります。
・「谷鐡臣翁の俤」(雑誌「斯文」9巻6号)、
・『彦根案内』(彦根実業同志会編 大正6年同会刊)、p.68-69、
・『京都府下人物誌 第1編』(桜井敬太郎 等著 明治24年 金口木舌堂刊)、p.12-13
【谷鐡臣の医学修業】
谷鐡臣の医学修業について、嘉永二年(1849)頃に長崎で蘭学を学び、父の死を契機として彦根に帰った後、種痘を広めたことについて、次の文献に記述があります。
・『彦根の先覺』によると、「・・・十七歳のときから、彦根へ帰ってくる二十七歳まで、十年以上を江戸、東北、越後、長崎と移りながら、儒学や蘭学(オランダから伝わった医学)を、幅広く学んできました。そして、父が病気になったので、父親の後をついで医者になり、滋賀県では初めてという種痘の技法を広めました。」と紹介されています。
・『滋賀県史 第4巻』によると、「・・・本縣に於ける種痘は文久以前彦根藩醫澁谷鐡臣が長崎より痘苗をもたらして接種したのを始とし、・・・」と紹介されています。
・「谷鐡臣翁の俤」によると、「・・・翁二十八歳の時長崎に遊び、和蘭の醫學を修め・・・」「・・・父孔昭が白玉樓中の人となられ・・・、長崎より帰鄕して箕裘を繼がれたのが、翁が二十九歳の時で・・・」「父の醫業を継がれましてから、大に種痘を奨励せ・・・」と紹介されています。
・『彦根案内』「谷鐡臣」の項によると、「・・・後長崎に行て蘭醫某に就き内科を學ぶ嘉永二年十二月父の病氣によりて歸る、父死して醫業を始むこれ彦根に於て蘭法内科の始めなり、又此時痘苗を長崎に得て種痘を始むこれ近江における種痘の嚆矢にして・・・」と紹介されています。
・『京都府下人物誌 第1編』「谷鐵臣」の項には、父の意向により、17歳の頃から京都・江戸で医学修行にでたものの、長崎へ向かうまでは、儒学に傾倒していたエピソードが紹介されています。
【家族関係】
澁谷周平孔昭の長男、文久三年(1863)生まれの澁谷周平の家族関係に関して、次の文献に記述があります。
・『彦根の先覺』によると、「・・・渋谷家の長男として生まれました。・・・父親がご殿医をつとめていたので、・・・」「・・・そのため医者の仕事がおろそかになってきたので、そのほとんどを弟の周平に任せました」との記述があります。
・「谷鐡臣翁の俤」によると、「・・・滋賀縣彦根の市醫澁谷周平孔昭の長男・・・」との記述があります。
このことから、谷鐡臣は、滋賀縣彦根の市醫澁谷周平孔昭の長男であり、弟の澁谷周平が、父澁谷周平孔昭の後継者となったことがわかります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 1 現代滋賀縣人物史 坤巻 布施整亮∥編 暲龍社 1919年 S-2800-2 p.896-897
- 2 彦根の先覚 彦根市立教育研究所∥編 彦根市立教育研究所 1987年 S-2851- 87 p.17-19
- 3 滋賀縣史 第4巻 最近世 滋賀県∥編 滋賀県 1928年 S-2100-4 p.63-64
- 4 新修彦根市史 第2巻 通史編 近世 彦根市史編集委員会∥編集 彦根市 2008年 S-2151-2 p.642
- 5 彦根藩の藩政機構 藤井讓治∥編 彦根城博物館 2003年 S-2551- 03 p.307-315
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000335152