レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/11/28
- 登録日時
- 2019/12/26 00:30
- 更新日時
- 2019/12/26 00:30
- 管理番号
- 滋2019-0025
- 質問
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解決
浅井長政、石田三成、明智光秀の普段の食事に関する資料があれば、年代も合わせて教えてほしい。
- 回答
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三人の武将の日常の食事については、個別には記録を見つけることができませんでした。
しかしながら、日本の食生活史関連図書から、当時の一般的な食事の様子がわかる図書や、普段の食事でなく、特別な日の料理に関してのものではありますが、これらの武将の食に関する記録がありましたので、ご紹介します。
1.室町時代から戦国時代・安土桃山時代の一般的な食事に関する図書
①『日本食物史』
同書では、「中世の食生活は、都の文化のなかで磨かれた貴族の食と、地方で培われた実質的な武士の食と、中国の食文化を取り入れた僧家の食とが相互に影響しあって形成され、一般庶民にも普及していった」と概括されています。年表・索引もあり、日本の食生活史の大きな流れが調べられる本です。
②『日本食生活史』
時代別・階級別の食事の内容がくわしく記述されているので、この本を見ればかなり具体的に当時の食事をイメージすることができます。室町時代の武士の食事については、「武家の食風は貴族食の影響をうけ、食事の際の礼儀作法形式を尊ぶ風が生じ、武士の食事についての教養は高まり、暴飲暴食をいましめる風が現われ、一般的に健康的であった」「その上に饅頭・羊羹・麺類・豆腐などの禅宗食品が普及し、民衆文化の台頭は庶民食を向上せしめるに至った。」と述べられています。室町時代から安土桃山時代にかけての茶の湯の流行・懐石料理の登場・南蛮文化の影響についてもくわしい説明があります。
③『日本の食文化史年表』
日本人の食生活について、いつ、誰が何をしたかが年表形式でまとめられている本です。信長や秀吉が開催した茶会についても、いつ、どのような茶会を行ったか、それは何に記録されているかが書かれています。光秀が安土城での新年の茶会に招待されていることも書かれています。
④『たべもの戦国史』
戦国時代の武士の食事について詳しく書いた本です。同書によると、平時の食事については、「武士の食事はいたって粗末で、一日黒米が五合。これを、朝餉、夕餉の二回に分けて食う。」「黒米飯といっても、まるまる玄米ではなく、いくらか杵が当ったものである。この玄米飯に、普通は糠味噌汁がついた。」「大豆は馬糧として貴重だったから、大豆味噌は常食にはあまり回らない。」「糠味噌(製法と効果などは後述)も切れれば塩汁で、時々魚の塩焼きや豆腐、野菜の煮しめなどがつく。」とあります。
合戦時の食事については、「しかし、いったん合戦になると、昼食はもちろん、必要とあらば夜食もとる。大豆味噌もふんだんに用意される。米は小荷駄(兵粮や弾薬などを運ぶ騎馬隊)によって、精白した白米を運ぶ場合が多く、これはたいへんなご馳走である。その他に各自が、干納豆やカツオ節、梅干などを持参する」とあります。
⑤『歴史ごはん 第2巻』
平安時代・鎌倉時代・室町時代の食事について、子供向きにわかりやすく記述されています。
2.長政、三成、光秀の食に関する記録
①浅井長政
普段の食事ではなく、特別な時のおもてなし料理ですが、『滋賀県の伝統食文化』に「戦国大名の食」として、「天文三年浅井備前守宿所饗応記」(長政の祖父にあたる浅井亮政が京極氏をもてなしたときの献立)が掲載されています。『湖北町の伝統食・地産食』にもこの献立と再現写真が掲載されています。
魚・鳥などをふんだんにつかった豪華な本膳料理です。
②石田三成
『たべもの戦国史』には三成の食に関するエピソードが記述されています。一つは、「石田三成の最期」の項で、関ケ原の戦いに敗れて三成がとらわれたのち、いっときも早く死のうとして何も食べようとしなかったが、田中吉政に直々に問われて韮雑炊を所望し、よろこんで食べたという話です。もう一つは、「たべもの戦国史年表」の関ケ原の戦いの項で、「焼き味噌を湯にかきたてて飲めば、食いものがなくても終日飢えることがないと、三成世話の武士に教える。」という記述があります。
③明智光秀
『滋賀県の伝統食文化』には「天正十年安土御献立」(安土城で信長が家康をもてなした時の献立)も掲載されています。この饗応は、光秀がその任にあたったと言われています。『日本の食文化史年表』にも「安土城で開かれた、徳川家康をもてなす饗宴の接待役に、織田信長が明智光秀を任命。しかし、光秀は丁重なもてなしを施したにもかかわらず、「贅沢すぎる」との信長の怒りに触れ、解任される」と記述されています。もっとも、この逸話は後の「本能寺の変」の原因のひとつとして比較的よく知られていますが、一次資料での裏付けが取れないことから、現在の歴史学界では「否定的な見解が多い」(渡邊大門)とされています。
『歴史ごはん』第2巻にもこの時の献立が写真で再現されています。3日間に4回の食事が用意され、全部で140品がふるまわれたということです。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 衣食住の習俗 (383 8版)
- 参考資料
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- 1 日本食物史 江原絢子∥著 石川尚子∥著 吉川弘文館 2009年 G-3838-エ p.53
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2 日本食生活史 渡辺実 吉川弘文舘 1965年 2-383*-ワ p.182-189 -
3 日本の食文化史年表 江原絢子∥編 東四柳祥子∥編 吉川弘文館 2011.7 R-3838-エ p.73 -
4 たべもの戦国史 永山久夫∥[著] 新人物往来社 1977年 2-3838-ナ p.49,74,220 -
5 歴史ごはん 第2巻 平安~鎌倉~室町時代の食事 永山久夫∥監修 山本博文∥監修 くもん出版 2019.2 J-38 p.34-35 -
6 滋賀県の伝統食文化 平成6年度?平成9年度 滋賀県教育委員会文化財保護課∥編集 滋賀県教育委員会 1998年 SB-5900-94 p.215-217 -
7 湖北町の伝統食・地産食 湖北町食事文化研究会∥編集 湖北町食事文化研究会 2007年 S-5968- 07 p.108-109 -
8 明智光秀と本能寺の変 渡邊大門∥著 筑摩書房 2019.8 S-2811- 19
- キーワード
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- 浅井長政
- 石田三成
- 明智光秀
- 食事
- 武将
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 高校生
- 登録番号
- 1000271599