①「学校の中の事件と犯罪」では、事件の概要についての記載がある。
戸塚ヨットスクールでは、不登校児等の特別合宿生に対してスパルタ式の厳しいヨット訓練を行っていた。その結果5名の訓練生が死亡したり行方不明になるなどした。このうち4名の死亡等に関して戸塚宏校長とコーチ14人の計15人が傷害(致死、致傷)、暴行、強要等の多数の罪に問われ、裁判となった。そのうち、戸塚校長とコーチら計4人は、自らの行為の正当性を主張して最高裁まで上告したが、結局、戸塚校長の懲役6年を筆頭に15人全員の有罪が確定した。
また、戸塚ヨットスクールの概要については以下の通りである。戸塚ヨットスクールは、沖縄海洋博記念の太平洋横断レース優勝等で有名になった戸塚校長によって、1976年に愛知県知多半島に開設された。当初は一般の子どもを対象にしたヨットスクールであったが、そのうち同スクールの訓練を受けた不登校児が通学できるようになったなどの新聞報道をきっかけに、一般向けのヨットスクールとは別に、問題を抱えた青少年を対象とした特別合宿訓練を実施するようになった。ケースによっては、親の意向だけで入校を決定し、子どもの意思に反して、コーチらがその子どもを強制的にスクールまで連行し、逃げられないように監視しながら体罰を含む厳しい訓練をうけさせてた場合もあった。
②「戸塚ヨットスクールは、いま」では、事件の概要と裁判についての記載がある。
・1980年11月 当時21歳の大学浪人生が、訓練中に冷たい海に放り込まれるなどの暴行を受けて死亡した。
。1982年 8月 15歳の高校生二人が、奄美大島の夏合宿から帰る途中、訓練から逃れるため、フェリーから海に飛び込み、行方不明となった。
・1982年12月 当時13歳の中学生が訓練中に竹刀で殴られるなどして死亡した。
・1983年、警察は行き過ぎた体罰が原因だとして戸塚校長と12人のコーチ全員を傷害致死や監禁致死などの容疑で逮捕した。
・1992年7月 名古屋地方裁判所で判決が出る。戸塚被告に懲役3年執行猶予3年。9人のコーチに懲役2年6カ月から10カ月、執行猶予2年から3年。その後検察、戸塚校長、コーチ側双方が控訴。
・1997年3月 名古屋高裁で判決が出る。1審判決を破棄して、戸塚校長に懲役6年、コーチ3人に懲役2年6カ月から3年6カ月の実刑判決。戸塚校長は上告。
・1996年最高裁は弁護側の上告を棄却。戸塚校長の懲役6年の刑が確定した。
・2006年4月 戸塚校長は静岡刑務所を出所。
また、①には、4人の暴行について判決を引用しながら実名入りで様子が書かれている。
・吉川幸嗣君(当時21歳)の傷害致死事件について、「成人の吉川幸嗣に暴行を加えて自宅から連れ出した上、多数回にわたり殴打足蹴りなどの激しい暴行を加えて早朝体操及び海上訓練を強制し、多数の損傷を負わせて外傷性ショックにより死亡させた。」
・小川真人君(当時13歳)の傷害致死事件は、「体力が劣っているため心身の鍛錬を目的として入校した13歳の小川君に初日から激しい暴行を繰り返し、私大に体力が衰え健康を損ねているのに、なおも過酷な海上訓練を強制し、激しい暴行を加えて外傷性ショックにより死亡させた。」
・水谷真君(当時15歳)及び杉浦秀一君(当時15歳)がフェリーあかつきから逃亡しようとして太平洋上で行方不明になった事件については「15歳の水谷真及び杉浦秀一に対し、暴行を加えて合宿所に連行し、合宿所の格子付き押し入れに収容したり、奄美大島の夏期合宿施設へ連行し、現金を持たせず、手紙の発信や電話通信も一切禁止し長期間にわたり見張って行動の自由を制限し、ついに奄美大島からの帰途フェリーから海に飛び込んだ二人を死亡させた。」
③「崩壊したヨットスクール 港のない子ら」には、事件について詳細に取材した記録が書かれている。