レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年11月10日
- 登録日時
- 2022/01/20 14:01
- 更新日時
- 2022/01/20 16:08
- 管理番号
- 地-210016
- 質問
-
解決
『中江種造伝・上』(曽我鍛編 中江竜二 1941)247~254頁によると、明治初期に横浜の太田村西太田に国立金銀分析所というものがあったようである。この「金銀分析所」について知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介した。
・『横浜市史稿 産業編』 横浜市編 臨川書店 1986
※昭和7年に刊行されたものの復刻版。
「第二期 明治大正時代 第一章 商業 第四節 明治三年五月現在の横浜商人」が立節されている(p.283-313)。p.297-298に「増田嘉兵衛」についての記載があり、p.298に「帰朝後間もなき同年(明治四年)五月、金銀分析所を創設し、(以下略)」とある。
・『明治の「横浜の人」 』川口正英著 ブックス二宮 1985
p.52-53に「各種経済関係施設を創造した 増田嘉兵衛」が立項されている。p.53に「明治五年(一八七二年)金銀分析所を創立し、(以下略)」と記載がある。
・『百年の大阪 第3巻』 大阪読売新聞社編 浪速社 1967
p.179-185に「中江済学会 -英才に奨学資金-」が立項されている。p.182に「中江種造」についての記載があり、「北区天満伊勢町に、友人と共同で金銀分析を開き、確かな分析で人気を呼ぶ。この腕が買われて横浜にできた政府の金銀分析所技師長、古河市兵衛がはじめた栃木県足尾銅山の顧問技師を歴任、「金は古河、技は中江」といわれるほどの活躍ぶりで、(以下略)」と記載されている。
・『大阪商人太平記 明治後期篇 上』 宮本又次著 創元社 1962
中江種三について、p.194に「やがて太政官が横浜に開設した金銀分析所技師長になったりした。」と記載されている。
このほかにも参考として以下の情報も提供した。
横浜在住の叔父中江種造方からドイツ語の学校へ通い、のち東京大学医学部へと進んだ河本重次郎がいる。
インターネット「但馬の百科事典」 https://tanshin-kikin.jp/tajima/42 より(2022.1.20確認)
河本重次郎は日本近代眼科の父との異名を持ち、以下の伝記が刊行されている。
・『河本重次郎伝』 岩崎克己著 長崎書店 1943年
上記の資料は、「国立国会図書館デジタルコレクション」にて、国立国会図書館/図書館向けデジタル化資料送信サービス参加館内で限定公開されています。(国立国会図書館の請求記号:289-ka975ウ、永続的識別子 info:ndljp/pid/1043606)
「二、学生時代」の中のp.34に「中江氏はその頃、今の中区太田町にあつた大蔵省の金銀貨幣分析所に勤めていた。」と記載されている(26コマ)。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本 (281)
- 関東地方 (213)
- 参考資料
- キーワード
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- 金銀分析所
- 増田嘉兵衛
- 金銀貨幣分析所
- 中江種造
- 河本重次郎
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000310953