レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年11月26日
- 登録日時
- 2020/12/25 15:14
- 更新日時
- 2021/01/07 13:18
- 管理番号
- 0131225238
- 質問
-
解決
高崎市出身の狂歌師“生方雨什”(文化10年没)の句碑『月雪花のながめはさらなり 奥深しほととぎすにも富ヶ岡』が、深川の富岡八幡宮にある理由を知りたい。
- 回答
-
当館の事例『生方雨什について所蔵資料から紹介してほしい。』をご覧になってお問い合わせいただいたとのこと。
当事例の参考資料や群馬の俳諧史にあたるが、この句が掲載されている資料は見当たらなかった。
また、雨什が江戸にでた、と記述のある資料はあるが、雨什と富岡八幡宮あるいは深川との関連についての記述は見当たらなかった。
- 回答プロセス
-
まず、江東区の公式サイトにて、次の内容を確認した。
江東区HP
有形文化財(歴史資料)
名称:平花庵雨什句碑 住所:富岡1-20-3 地区:深川 所有地(所有者):富岡八幡宮 登録年月日:1983年3月25日
(https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/ichiran/13482.html 最終確認:2020.12.25)
また、当館事例『生方雨什について所蔵資料から紹介してほしい。』より次の参考資料にあたるが、該当の内容見当たらず。
郷土歴史人物事典群馬 萩原進著 第一法規 1978
群馬県人名大事典 上毛新聞社 1982
上州の俳諧 清水寥人監修 あかぎ出版 1992
新編高崎市史 資料編8 (近世 4) 高崎市市史編さん委員会編 高崎市 2002
新編高崎市史 通史編3 (近世) 高崎市市史編さん委員会編 高崎市 2004
『高崎俳諧の系譜』(p.681-684)に次の記載あり。
“寛政2(1970)年2月に鳥明に乞われて松露庵を継承し江戸に出たが、寛政12年名跡を返上して高崎に戻った。”
江戸時代の信濃紀行集 矢羽勝幸編 信濃毎日新聞社 1984
『更科紀行・川中嶋懐古 生方雨什』(p.117-124)の解説部分に、寛政11年春に師の庵号松露庵を兄弟子鳥明から譲られ4世を継承しまもなく江戸に出た、といった内容の記載あり。
上毛の俳諧 田村夙夢著 [田村夙夢]1989
さらに、これ以外の県内俳諧史について、次の資料にあたるが記載見当たらず。
群馬の俳句と俳句の群馬 林桂著(みやま文庫) みやま文庫 2004
上毛俳諧史 二編 しの木弘明著 俳山亭 1999
新町宿の俳諧史 本多夏彦[著] 新町公民館 1976
群馬の俳句 館林市教育委員会文化振興課(田山花袋記念文学館) 2001
上毛俳書解題 第1輯 本多夏彦著 上毛文化会 1940
群馬風土記 第6巻第2号通巻27号(平成4年3・4月号)
上州の文人たち 第6回 高崎地方編後編 しの木弘明著 p125-136
- 事前調査事項
-
富岡八幡宮の禰宜に聞いたところ、不明との回答であった。
- NDC
-
- 詩歌 (911 9版)
- 参考資料
-
-
生方雨什について所蔵資料から紹介してほしい。(高崎市立中央図書館).
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000006-I000216204-00
-
生方雨什について所蔵資料から紹介してほしい。(高崎市立中央図書館).
- キーワード
-
- 生方雨什
- 富岡八幡宮
- 句碑
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 2021.1.7:回答プロセスを修正。
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000291499