レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年12月18日
- 登録日時
- 2022/02/04 10:44
- 更新日時
- 2022/02/22 08:45
- 管理番号
- 中央-1-0021532
- 質問
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解決
埼玉にあった野戦病院を調べている。ベトナム戦争後、負傷した米兵が東京に隣接した場所に滞在しテントを張ったが、小学校が近くにあったため、学校が移転したという。以前に市史(志木・新座・朝霞・和光あたり)で見たことがある。
- 回答
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以下の資料を提供。その他、関連資料を紹介した。(回答プロセス参照)
『朝霞市史 通史編』朝霞市教育委員会市史編さん室/編集 朝霞市 1989年
- 回答プロセス
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「埼玉」「ベトナム戦争」「病院」などキーワードでインターネット検索したところ、「キャンプ・ドレイク」(朝霞市)と呼ばれていたことがわかった。
・『朝霞市史 通史編』朝霞市教育委員会市史編さん室/編集 朝霞市 1989年
p1328 ベトナム戦争と朝霞基地
「朝霞基地は朝鮮動乱に引き続きベトナム戦争の野戦病院となった。」
「朝霞第一中学校はその(傷病兵を運ぶヘリコプターの)騒音と(中略)傷病兵の無残な姿は、教育環境上に波紋を呼ぶこととなった。」
「米軍はヘリポートを朝霞第六小学校(現市役所)近くに移転したため、再び教育環境問題となって」「打開策として、昭和46年3月、朝霞第六小学校を現在地に新築移転することとなった。」
p1377 キャンプ朝霞の返還について
・『学校史でまなぶ日本近現代史』歴史教育者協議会/編 地歴社 2007年
p95 野戦病院となったキャンプドレークの基地公害についての記述あり。
・『ベトナム戦争と日本』吉沢 南/[著] 岩波書店 1988年
p32、朝霞の野戦病院は当初は200ベッド程度の規模だったが、1967年に2000ベッドに拡充され、当時一番大きい病院(1248ベッド)と比べるといかに規模が大きかったかということについて書かれている。他に埼玉県の野戦病院として、入間郡ジョンソン基地(現在の狭山市・入間市)内の「第七野戦病院」が挙げられている。
・『君たちに伝えたい 朝霞、そこは基地の街だった。』中條 克俊/著 梨の木舎 2006年
p56-60 キャンプ・ドレイクの規模や日本人労働者の賃金について
p110-117 ベトナム戦争後の野戦病院と近隣学校の反応について
p111 ノースキャンプの地図あり
p115 埼玉新聞1968年2月21日の「野戦病院さけ移転/朝霞第六小学校」の記事見出し掲載
そのほか、基地があったことにより子どもたちにどのような影響があったかの記載多。
・『君たちに伝えたい 2 朝霞、キャンプ・ドレイク物語。』中條 克俊/著 梨の木舎 2013年
キャンプ・ドレイクと朝霞事情について記述あり。
・『あさかの歴史』朝霞市教育委員会社会教育部市史編さん室/編集 朝霞市 1997年
p190~197「第一節 朝霞にアメリカ軍のキャンプ・ドレイクがあったこと」
p192 野戦病院について記述あり。小学校との関係については書かれていない。
- 事前調査事項
- NDC
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- 衛生学.公衆衛生.予防医学 (498 10版)
- 関東地方 (213 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 野戦病院
- ベトナム戦争
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000311803