レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年04月19日
- 登録日時
- 2016/06/13 14:02
- 更新日時
- 2016/09/06 13:29
- 管理番号
- 埼熊-2016-021
- 質問
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解決
赤沼藩の初代藩主、内藤正勝が大名となった以降に「居所 赤沼」、あるいは「赤沼藩」と記された文書があるか知りたい。武鑑には、正勝の旗本時代のものは登載されている。
- 回答
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『鳩山町史 2 鳩山の歴史』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2006)によると「公儀被仰出書日記」という古文書に内藤正勝が大名として、居所を赤沼に設けたことが記されている。
また、『鳩山風土記稿 鳩山町史編さん調査報告書 第2集』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2001)
p68-71「赤沼村誌」に「元禄期の赤沼の愛宕山に内藤氏の館があった」旨の記述があった。
- 回答プロセス
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1 赤沼藩が「鳩山」周辺にあったとされるため、「鳩山」の歴史について調べる。
『鳩山町史 2 鳩山の歴史』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2006)
p26に下記の記述あり。
「以上の通り内藤式部少輔家は元禄六年(一六九三)大名に列し、領地の武蔵国赤松村を居所(陣屋)に定め、同十六年、岩村田藩に移るまでの一〇年間、武蔵赤松藩主であった。しかし、『寛政重修諸家譜』に記されている元禄期の内藤式部少輔家の居所とされた赤松の地は見出せず、幻の藩であった。ところが最近、山中清孝氏が「公儀被仰出書日記」という一冊の古文書から、武蔵赤松とは比企郡赤沼であることを発見し、その後、事典類の記述も一新されたのである。内藤式部少輔正勝は元禄十五年のこと、年齢四十歳、高一万六〇〇〇石の大名として、居所を武州松山領赤沼(鳩山町)に設けたとみられたのである。」
『近世鳩山図誌 鳩山町史編さん調査報告書 第8集』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2005)
p137-138「旗本内藤式部少輔の知行」『鳩山町史 2』とほぼ同じ内容の記述あり。
『鳩山風土記稿 鳩山町史編さん調査報告書 第2集』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2001)
p68-71「赤沼村誌」あり。明治14年に皇国地誌編さん事業により戸長から提出された資料であるとのこと。
「(前略)蓋シ内藤式部少輔所轄ト為ル歟延宝ノ頃仍其子内藤上野介之所有歟後元禄ノ頃内藤式部少輔者(与前名別人歟)愛宕山ノ東麓ニ築館シ以テ近傍諸邑ヲ領ス」
「山 愛宕山 本標ノ正南二町余[虫損]リ一丘平地ヨリ起リ高[虫損]凡三拾丈朝陽ニハ内藤式部少輔[虫損]館址アリ(後略)」
2 自館目録を武蔵赤松とは比企郡赤沼であることを発見した〈著者:山中清孝〉で検索する。
『関東近世村落史の研究 山中清孝遺稿集』(山中清孝著 山中康裕編 創元社 2015)
目次など一通り確認したが、質問に関連する記述なし。
3 事典類を調査する。
『藩史大事典 第2巻 関東編』(雄山閣出版 1989)
p631「赤沼藩」「陣屋 赤沼陣屋 所在地 埼玉県比企郡鳩山町赤沼(遺跡は存在しない)」とあり。
執筆者名:大友一雄
自館目録を〈全項目:大友一雄〉で検索するも、該当しそうな資料なし。
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 1998)
「内藤正勝」の項目なし。
- 事前調査事項
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質問者は『大武鑑』(橋本博編)を確認済み。
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 日本 (291 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『鳩山町史 2 鳩山の歴史』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2006)
- 『鳩山風土記稿 鳩山町史編さん調査報告書 第2集』(鳩山町史編集委員会編 鳩山町 2001)
- キーワード
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- 内藤 正勝(ナイトウ マサカツ)
- 赤沼藩
- 日本-歴史-江戸時代
- 鳩山町(埼玉県)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000193253