レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年12月8日
- 登録日時
- 2022/01/11 14:26
- 更新日時
- 2022/01/14 17:50
- 管理番号
- 県立長野-21-190
- 質問
-
未解決
村上兵部大輔国忠について知りたい。小笠原系図では、長氏の項に生母として、[村上兵部大輔国忠の娘]と記載があった。
- 回答
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当館所蔵の資料を調査したが、「村上国忠」について、書かれているものは確認できなかった。
小笠原長氏については、『新編 信濃史料叢書 第12巻』 信濃史料刊行会編・刊 1975 【N208/43/12】に所収されている「笠系大成 3」に、「長氏」(p.113)があった。これによると長氏は寛元4年(1246年)伊那郡松尾館(現在の飯田市)で生まれたとなっている。母は村上兵部大輔国忠の娘。長氏の父である長政の項目には「室」の記載はないため、長氏は嫡男とはなっているが、村上兵部大輔国忠の娘が正室であったかは判断できない。
また、『下伊那史 第5巻』 下伊那教育会編 下伊那史編纂会 1967 【N243/18/5】のp.93-133に小笠原氏についての記述があり、このp.112に長氏の記述がわずかに見られる。ここでは、小笠原氏が伊那郡伴野庄に居住したことには、疑問を呈する位置づけで記されている。
どちらも国立国会図書館デジタルコレクション図書館送信参加館内公開の資料。【最終確認2021.1.13】
『村上義清とその一族』 笹本正治監修 信毎書籍出版センター2007 【N289/ムラカ】のp.149-176にかけて、始祖の系図の各系統(清和源氏、村上源氏)や、南北朝までの経過が書かれている。鎌倉草創期までの史料も紹介されているが、その後政権が北条氏に移り、南北朝期に至るまで村上氏は史料に登場してこないため、不明な点が多いとしている。反北条氏という立場が影響していると考えられると記されている。
問い合わせの「国忠」は小笠原長氏との関係からみると、丁度この時期にあたり、史料のない時代にあたる。
村上氏は信濃を発祥としていますが、全国に広がった一族であるため、様々な系統に分かれている。『村上百系図』 村上清著・刊 1975 【N288/116/1-3】の上巻が系図となっているため、「国忠」を目視で探したが、小笠原長氏(1246-1310)の時代周辺の村上氏の系図の中に、国忠は確認できなかった。
『上山田町史』 上山田町史編纂委員会編 上山田町1963 【N215/17】も、村上氏の本拠地であった現在の坂城町に近いため、第鎌倉末期までの坂城の中世についての記述があり、村上氏についての記述が散見される。信濃守護小笠原氏との関係についても触れられているが、文中の記述および、引用されている系図中に「国忠」は確認できない。また、系図中に「兵部大輔」職についている人物は、p.142の「村上孫(弥)四郎」から始まる系図に政清(信濃守)と義久(従五位下)だった。両名とも南北朝以降と思われるので、小笠原長氏より後の時代となる。
『上山田町史』は、国立国会図書館デジタルコレクション図書館送信参加館内公開の資料。【最終確認2021.1.13】
なお、主な長野県内の市町村史誌の目次を検索できる長野県市町村史誌目次データベース【最終確認2021.1.13】で、「村上氏」をキーワードに検索したが、「村上国忠」は確認できなかった。
『尊卑分脈』黒坂勝美編 吉川弘文館 2001 (国史大系60)【210.08/クカ/60-1】で、「国忠」から調べると、2名が該当した。p.100に清和源氏村上氏の「信濃村上」に、村上源判官代為邦の孫で「国忠」がいる。この系図では、父の国高は、村上源太および、二柳太郎となっているので、ここで二柳を名乗ったと思われる。国忠は二柳三郎大夫となっており、藤原泰衡追討の功で信濃の国夏目村の地頭職とある。国忠の子どもが、二柳姓と夏目姓とに分かれている。生没年は不詳だが、泰衡追討とあることから、藤原泰衡の没年(1189年)からすると、百年ほどの差がある。
もう一人は、p.480には、村上源氏のなかに、為平親王からの系で、頼定、定季、国房、国忠と続いている。国忠には「諸陵助」とだけ肩書がある。
なお、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県』角川書店 1996 【288.1/カド/20】p.874「夏目」、および『更級郡・埴科郡人名辞書』 信濃教育会更級郡部会編 象山社 1978 【N280.3/2-1】p.345「夏目氏」にも、国忠についての解説がある。
- 回答プロセス
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1 小笠原長氏の系図を確認する。小笠原氏なので、『新編 信濃史料叢書 第12巻』所収の「笠系大成」から探す。問い合わせと同じ国忠にかかわる記述を確認する。
2 小笠原長氏は松尾館で生まれた、とあることから、現在の飯田市周辺の誌史類をを調べる。『下伊那史 第5巻』に、当時の小笠原氏は任地である信濃松尾には居を構えなかったのではないか、としている。『松尾村誌』には長氏の母や村上国忠についての記述はない。
3 村上氏についての資料をあたっていく。
4 長野県市町村史誌目次データベース【最終確認2021.1.13】で、「村上氏」と検索し、当時村上氏が本拠としていた東信地域の誌史類を探す。松尾館のある南信地域については、時代が合致する村上氏は確認できなかった。
5 『尊卑分脈』の索引巻で「国忠」から調べると、2名の記載があった。当該人名を歴史辞典類で確認する。
<調査資料>
・『松尾村誌』 松尾村誌編集委員会編 松尾村誌刊行委員会 1982 【N243/115】
・『信濃村上一族』 志村平治著 歴研 2012 【N289/ムラカ】
戦国期の村上氏について書かれた資料だが、始祖について触れている部分、および系図がある。
しかし、「国忠」は確認できなかった。
・『村上義清と信濃村上氏』 笹本正治監修 信毎書籍出版センター2006 【N289/ムラカ】
・『長野県史 通史編 第2巻 中世1』 長野県編 長野県史刊行会 1986 【N209/11-4/2】
・『長野県史 通史編 第3巻 中世2』 長野県編 長野県史刊行会 1987 【N209/11-4/3】
・『更級埴科地方誌 第2巻 原始古代中世編』
更級埴科地方誌刊行会編 更級埴科地方誌刊行会1978 【N215/32/2】
p.802-868にかけて、平安期から鎌倉末期までの記述があり、村上氏についての記述が散見され
る。信濃守護小笠原氏との関係についても触れられているが、文中の記述および、引用されてい
る系図中に「国忠」は確認できなかった。
・『坂城町誌 上巻 自然編民俗編』 坂城町誌刊行会編 坂城町誌刊行会 1979 【N216/37/1】
・『坂城町誌 中巻 歴史編(1)』 坂城町誌刊行会編 坂城町誌刊行会 1981 【N216/37/2】
p.183-217にかけて、鎌倉末期までの坂城の中世についての記述があり、村上氏についての記述
が散見される。信濃守護小笠原氏との関係についても触れられているが、文中の記述および、引
用されている系図中に「国忠」は確認できない。
・『坂城町誌 下巻 歴史編(2)』 坂城町誌刊行会編 坂城町誌刊行会 1981 【N216/37/3】
・『戸倉町誌 第2巻 歴史編 上』 戸倉町誌編纂委員会編 戸倉町誌刊行会 1999 【N216/51/2-1】
p.235-255 当地における村上氏の発生から、鎌倉時代末期まで村上氏の活動の記述があった
が、文中の記述および、引用されている系図中に「国忠」は確認できない。
・『信州新町史 上巻 古代、中世編』
信州新町史編さん委員会編 長野県上水内郡信州新町 1979 【N212/148/1】
・『更埴市史 第1巻 古代・中世編』 更埴市史編纂委員会編 更埴市 1994 【N216/49/1】
・『上田市誌 7巻 上田の荘園と武士』上田市誌編さん委員会編 上田市誌刊行会2001 【N221/175/7】
・『上田市誌 29巻 総説 上田の歴史』上田市誌編さん委員会編 上田市誌刊行会2004 【N221/175/29】
・『真田町誌 歴史編上』 真田町誌編纂委員会編 真田町誌刊行会1998 【N221/156/2】
・『青木村誌 歴史編 上』 青木村誌編纂委員会編 青木村誌刊行会1994 【N221/133/1】
・『小諸市誌 歴史編 地方史年表』 小諸市誌編纂委員会編 小諸市 1990 【N222/43/2-別】
・『中野市誌 歴史編 前編』 中野市誌編纂委員会編 中野市 1981 【N213/59/2】
・『佐久市志 歴史編(2)中世』 佐久市志編纂委員会編 佐久市 1993 【N223/69/3-2】
・『臼田町誌第3巻 考古 古代・中世編 中世』
臼田町誌編纂委員会編 佐久市・臼田町誌刊行会 2007 【N233/106/3】
・『小川村誌』 小川村誌編纂委員会編 小川村 1975 【N212/121】
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 10版)
- 日本史 (210 10版)
- 中部地方 (215 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 村上氏
- 村上国忠
- 小笠原長氏
- 小笠原氏
- 松尾郷
- 村上系図
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000310513