レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2021年7月20日
- 登録日時
- 2022/02/03 17:32
- 更新日時
- 2022/02/22 08:43
- 管理番号
- 中央-1-0021525
- 質問
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解決
『浦和史 第4巻 近代資料編1』の浦和地方裁判所のぺ-ジに、「徳川時代に於ける首斬場所跡に新築」という記載があるが、首斬場所跡についてより詳しく書かれている本はあるか。
- 回答
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下記資料を紹介した。
・『浦和市史 通史編4』浦和市総務部行政管理課/編 浦和市 2001年
・『武蔵国郡村誌 第2巻』埼玉県/編纂 埼玉県立図書館 1954年
詳細は回答プロセスを参照。
- 回答プロセス
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はじめに『浦和市史 第4巻 近代資料編1』(浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1975年)の出典として紹介されている『浦和案内』を確認する。
・国立国会図書館デジタルコレクション
『浦和案内』須賀健吉/著 明45.3 書誌ID:000000425578(インターネット公開)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763644
4コマ目に地図があり、明治26年に裁判所が新築された場所に「裁判所」の文字が確認できる。
26コマ目に浦和地方裁判所の説明があり、「現在の位置即ち徳川幕府時代に於ける首斬場所跡に新築の工を起し」と書かれている。
新築された場所は、位置検索等により、現在の常盤公園であることを確認。
そこで、常盤公園の歴史について書かれている資料を探す。
・さいたま探訪コース 浦和の歴史を知る 常盤公園
http://www.saitamacci.or.jp/exploration/course_06/tokiwakoen.asp
“江戸時代初期は「御殿」と呼ばれ、徳川家康、秀忠が鷹狩りの際の休憩所として使用したが、慶長16年取り壊された。廃止後も「御殿跡」「御林」の名で幕府に保護された。明治26年、ここに浦和地方裁判所が建設され、赤レンガ堀は当時の名残である。”との記述あり。
(1)『浦和市史 通史編2』浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市 1988年
p238「浦和においては、現在の常盤公園すなわち浦和地方裁判所跡地が「御殿山」と呼ばれており、ここに御殿があったとされている。」との記述あり。「さいたま探訪コース」の情報と同じく、この場所で鷹狩りが行われていたことがわかる。
p277「『新編武蔵風土記稿』には、浦和宿に御殿山(現常盤公園)という小名があり、ここに御殿が建てられていたと伝える。」と書かれているため、風土記稿をあたってみる。
(2)『大日本地誌大系 13 新編武蔵風土記稿 第7巻』雄山閣 1981年
p244から「浦和宿」について記述あり。
p246「小名 御殿山」の説明に「街道の西にあり、享保の頃まで参府の大名のある時は御老中をして、爰へ迎へしめたまひしと云、此事恐らくは事実を誤り傳へしならん、今は御林となれり」との記述あり。
(3)『浦和の今昔物語』小島煕/著 草土社 1967年
p164~165「鷹場」
「浦和には御殿山(現在の裁判所敷地)に殿舎があり、その表門は三代将軍家光の時、現在の玉蔵院の山門(黒門という)として移築されています。(中略)家康は鷹狩を練武の一助とし、民意を探り、重臣会議の機会としたのであります。」との記述あり。
(4)『浦和のあゆみ』[浦和] [浦和市] [1974]
p82 徳川家の鷹狩に関する記述あり。裁判所のあったところが御殿だったという、これまでの調査資料と同じ内容が書かれている。
(5)『浦和市史 通史編4』浦和市総務部行政管理課/編 浦和市 2001年
p236~ 常盤公園に関する記述の中で、「ここでいう御殿とは、徳川家康が設けた浦和御殿のことであり家康鷹狩りの際に宿舎とされたところで、平成7年(一九九五)、平成八年の発掘調査でその遺構が明らかになったと書かれている。
また、同ページには、「この土地に裁判所ができたのは明治二十六年(一八九三)であるが、それ以前は御殿山といわれていた。明治三年(一八七〇)までヒノキの林であったが埼玉県の仮県庁舎造営の際に伐木し、そのあと囚獄、行刑場になった(『武蔵國郡村誌』)。」との記述あり。そこで、底本として紹介されている『武蔵國郡村誌』をあたってみる。
(6)『武蔵国郡村誌 第2巻』埼玉県/編纂 埼玉県立図書館 1954年
p61の「御殿山跡」の項に「(浦和)宿の西方にあり東西41間南北56間徳川氏幕政の始年々大諸侯の参勤を此地に迎えしめしに後廃して慶長十六年に至り建物等を毀つと明治三年中ごろ檜樹の話なりしか仮県庁造営の際伐木の跡今囚獄行刑場の地となる」と書かれている。
インターネットで以下の情報を閲覧できるが、首斬場所についての記述は見つからず。
・「近世初期における将軍家御殿・御茶屋跡の考古学的研究」岡田茂弘ほか著(1995年度実績報告書 科学研究費助成事業データベース)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/report/KAKENHI-PROJECT-05451074/054510741995jisseki
研究概要に“浦和御殿は、「浦和本陣星野権兵衛由緒書」によると慶長年中まで(1596年以前)に設置され、徳川家康・同秀忠によって使用され、慶長16年(1611)に廃止されたことがわかる近世初期の将軍家御殿・御茶屋のうちでも早い時期に使用されたものである。その遺跡は幕府の御林として管理されていたことが文化8年(1811)作成の「浦和宿絵図」に「御林 御殿跡」と記載されていることから判明している。遺跡は明治26年(1893)に周辺の地域を含めて浦和地方裁判所用地となり、昭和49年(1974)に浦和市の常盤公園となって今日に至っている。現在では堀・土塁跡は地上に見えないが、明治13年(1880)に陸軍が作成した「埼玉県武蔵国北足立郡浦和駅」5000分1迅速測図によると牢屋跡の注記の下に堀・土塁が記載されているので遺跡の遺存状況を把握するため予備的なトレンチ調査を実施した”と書かれている。
「埼玉県武蔵国北足立郡浦和駅」5000分1迅速測図に情報が載っている可能性があるが、図書館資料やデータベースからは、この図の内容まで確認できず。
・埼玉県立図書館デジタルライブラリー
「埼玉県北足立郡浦和町全図」野口秀昌/製図 忠臣堂印刷所(印刷) 1917年
https://www.lib.pref.saitama.jp/item/index-1116919828.html
現常盤公園の場所に「浦和地方裁判所、浦和区裁判所」と書かれているのが確認できる。
※インターネット情報の最終アクセス確認日 2022年2月3日
- 事前調査事項
- NDC
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- 地方自治.地方行政 (318 10版)
- 日本 (291)
- 参考資料
- キーワード
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- 浦和地方裁判所
- 首斬
- さいたま市浦和区
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000311779