参考:日本の年中行事、年中行事辞典、日本大百科全書19
【3月3日 雛祭り・桃の節句】
女児の節句で、三月三日のお雛祭りは、上巳の節句とも弥生の節句ともいい、その起源は古く平安時代で、当時の書物に、美しい小さい男女の人形を持って遊ぶのを「ひいなあそび」と呼んでいます。
上巳の節句というのは、旧暦の三月三日が十二支の上の巳の日なのでこう呼んだもので、この節句には、紙で人の形を作り、この「ひとがた」で体をなでて身のけがれをそれに負わせ、海や川に流す「はらえ」という習慣のあったことが、源氏物語や栄華物語にも書かれています。この厄払いの身代わり人形と、飾ってあそんだりする人形とが結びついて、雛人形となり、雛祭りとなったのです。
また、一説には、上代は三月三日に宮中で儀式と宴会が催されて、これらの楽しい遊びと、幸福を祈るしきたりと、儀式がいっしょになって、後の雛祭りの起源となったともいわれております。
しかし、今日のような形式の雛祭りになったのは、江戸時代の始めごろからで三節句の一つとして女子の節句となり、雛も十五人揃いとなり、雛の調度も婚礼の調度を模して豪奢なものとなったのです。
雛人形は内裏雛(女雛、男雛の一対)、官女(三人)、右大臣、左大臣、五人囃子、衛士(三人)の十五人一揃いが正式です。
調度は、犬長子、貝桶、駕籠、茶道具などの婚礼の調度が飾られます。
なお、この日、白酒をのみ、草餅をたべるのも今に残る習慣です。
【雛祭り】
雛を飾って供え物をして祭ることは、3月3日以外にも小正月、端午、八朔、重陽などにも行われ、俳諧では後の雛と呼ぶ。雛は、祓の撫物俳諧から発したものであるから、重三の日以外にこれを行うのも異とするに当たらない。3月3日に雛祭を行うのは、もと中国で3月3日または同月上巳(第一の巳の日)に水辺に出て祓の行事を行う風習があったのがわが国に輸入されたもので、巳の日の祓として天子の玉体を行ったのを始め、上流の社会などで行われた。一般に干支によって定めた祭日を毎年一定の日に固定する傾向はほかの行事にも見られるが、巳の日の祓もその例で、3月3日に行うようになった。巳の日の祓の人形は、もとは宮中の撫物を賀茂川に流したが、町なかの川に流すことに不安が感ぜられたために、直接海に流す方法もとられた。これが後には寺に送って祈祷を修して、除厄の目的が果たされるように変わったのは大きな信仰上の変化であった。雛祭の発達はこのような信仰の変化を前提とせねば理解しにくいのであって、雛や這子が玩具うとして発達した原因も、祓除に対する感覚の弛緩したことに基くところが多い。それとともに、人形が装飾的・永久的なものになったのについては、目下から立派な物を作って貴人の撫物に用いるために献じたことが大いに関係があると思われる。これらの事情から、次第に3月3日の雛祭の風習が生まれたもので、その時期は徳川初期を溯ること久しくないものであろう。
室町幕府のことは、将軍に対面して盃・蓬餅を下されるのが3月3日の儀式で、雛を飾ることはなかった。江戸時代には、この日は五節供の一に定められ、熨斗目長袴で出仕し、将軍に献上物をし、菓子を下される。御内儀では雛を飾り、御三家御三卿から、さざえ・蛤・蒸餅・山川白酒・菓子の献上があり、夜は鳴物の催が行われた。蛤は、他の会では合わないということから、貞操のしるしとして用いるといわれ、蛤行器に赤飯をいれ、絵櫃に蓬餅をいれて雛に供えることが初期に雛祭風習であった。飾り方も、毛ぜん(もうぜん)などの上に紙雛を並べ、天勝・這子をおいて、調度には駕籠・屏風・銚子堤・行器・絵櫃などを並べるだけで、雛段を設けることはなかった。絵櫃は、曲げ物の飯櫃様の彩色し、花などの絵をかいたもので、古くは土佐日記2月16日の条に、「山崎の小櫃の絵」云々とあり、後世も山崎で絵櫃を売った。江戸時代2月末になると京の町を絵櫃を売り歩くのが風俗であったが、諸国奇遊談によれば、著者の幼児までですたれ、洛北の村里などで使われるのみとなった、いう。元禄ごろからの雛の調度が贅沢になり、絵櫃はすたれて金蒔絵の華美な諸道具が作られるようになった。雛に供える膳部も、明和・安永(1764~1780)以前は雛椀折敷といって質素な物が用いられたが、その後今日のような膳部が作られ、さらに蒔絵を施すようになった。菱餅も、前述のように行器に入れたが、大体寛政(1789~1800)ごろに今のような菱台と称する三宝の変型が現れたものという。女児の成育後幸福な縁談が得られるようにという親の願が雛祭の目的にはいって来たため、雛の調度に嫁入道具一式の模型が現れたもの見られる。
雛段の始まったのは元禄以前からと見られ、室井其角の五元集にも、「段の雛清水坂を一目哉」とある。段の数も、雛や調度の増加に伴って寛延(1748~1750)ごろは二段、明和(1764~1771)ごろは三段となったといわれる。江戸末期になると、内裏雛と称して雛段の上に内裏の有様を現すようになり、左近桜・右近橘・随身・女房・伶人・白丁・稚児などを加えるようになり、調度の面では反対に日常庶民の使用する箪笥・膳椀・化粧具・茶弁当その他の諸道具を飾るようになった。この風は明治以後にも延長され、御殿の星形を添えるようになった。雛については別項に述べたが、最初は大名などの上流では等身大のものを飾ったのが、後に幕府の禁令もあって、小型の精巧なものが現れ、これに統一された。男雛女雛の飾り方には、一定の定めはなかったが、多くは男雛を向って右にした。これを昭和御大典後から、両陛下の高御座と同様、男雛を左に飾ることが提唱された。これを最上段に、左右に御伽犬を置き、ぼんぼりを立て、また内裏雛の中央前に三宝に徳利を供える。次段は三人官女(中央が座り姿で盃を持つ。向って右は長柄、左は銚子を持つ立ち姿)を飾る。三段目は五人囃子で、これは能の囃方の位置と同じく、向って右から扇を持って歌う者、次が笛、中央が小鼓、次が大鼓2人を並べる。四段目は随身で、左大臣・右大臣を左右に、中央に御膳、その下向って左に橘、右に桜、その間に三人の仕丁をおく。
雛節供を、女の初児のある家で特に重く祝う風は全国的で、母親の里方や親戚から雛を贈る。地方によっては端午に男児の祝を行わず、男女ともに雛節供を祝う風があり、男の子には天神様、女児には内裏様(女雛)を贈る風もある。
雛節供に、子供たちが雛の供え物を無断で取りに歩いたり、または家々から菓子や豆を貰い歩くのを、愛知県やその近県でガンドウチといい、徳島県と岡山県の一部では雛荒しという。この類では、仲秋名月の晩の餅盗みが代表的であるが、その他の祝い事の機会を含めて子供や若者たちが、正式に招待を受けずに振舞にあずかる場合、縁側や門口に立って飲食するのが作法の一つであったらしい。また、供え物を買い歩くのでなく、雛を買いに来る所もあった。もと大阪府下では、婚礼の翌日村の子供たちが雛買いと称して集まるのに対して、土偶一対ずつを与え、中流以上の婚礼には人形三百対以上を要した例もあるという。
雛祭の終わりに、雛を送ることは、この行事の本来の意義を行うことであった。関東などでは、こわれたりいらなくなった雛を道の辻の祠などの傍に納めて来ることが多いが、岐阜県美濃郡では土焼きの粗末な雛を川に流す。和歌山県粉河地方でも簡単な人形を流す風があり、広島・徳島県などにもそれがある。最も名高いのは鳥取県の例で、串にはさんだ流し雛を苞い入れたり桟俵にのせて亜ガス。また火をともして川に送って行く風もある。関東にも以前、小高い所に登って、海を見つつ雛と名残りを惜しむ土地があったという。伊豆の稲取まどでは、9月9日にハンマアサマという人形を家族の数だけ、ハマオモトの葉で作り、夕方に川に流し「烏賊とさんまとなってござらっしゃい」といって、以前は泣く真似をして送ったという。三重県三重郡では3月3日に、カズラサマという葛で作った人形を、「カズラサンカズラサン、また来年おいでな。鯛こで祝お、鰡こで祝お」といって長洲。鳥取などの流し雛は、このような風俗が、市販品の雛で行われるようになったものと見られる。
撫物を流すという祓の行事の要素を多分に残している地方の例は少なくない。3月3日を西日本では、磯遊び・春慰み・山磯遊びなどといい、東日本でも山遊び・山行きなどといって、海や野山に遊びに出る風習がある。この日または翌4日を花見の日とするおも広く行われている風俗で、もとは花が咲く咲かぬにはかかわらぬ行事であった。この日は家にいてはならぬ日、祓に出る日という信仰から村をあげ、家をあげて屋外に出たもので、これに伴って屋外で飯をたいて共同の飲食を行う行事が発達した。今はたいてい子供だけの行事となっているが、3月の節供に外寵の行事を行う風は、盆に行われる同様の行事とともに少なくない。また、海や野山に出て遊ぶことから、少年たちの戦ごっこのような行事の発達した地方もある。
雛送りは、本来3日の夕方の行事であるが、一日限りでは物足りないため4日に延ばす傾向があった。大阪府下や広島県で4日を送り節供というのは、その現れで、4日を節間(群馬)・裏節供(長野)などといって休日とする例もある。また4日を花の四日(岡山)・花ちらし(北九州)・しがの悪日(岡山・徳島)などといって、この日に山や磯へ遊びに行く風があるのは、3日お延長として休む意味と、雛節供との重複を避ける意味とがあったものを思われる。