レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年08月14日
- 登録日時
- 2016/08/24 18:09
- 更新日時
- 2017/07/17 15:17
- 管理番号
- 長野市立長野-16-013
- 質問
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未解決
小菅山元隆寺五重塔の建立と廃滅年を探している。出来たら当時の高さ等も知りたい。
- 回答
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元隆寺五重塔の建立は、『寺社領由緒書』によると平城天皇御宇大同元丙戌年造築とある。
廃滅に関しては不明。
元隆寺は度々の兵火による消失にあっており、その年度は貞治四年、永享元年、永禄四年である。
寺の縁起に残るもので、永禄四年九月十日の川中島決戦において、武田勢が小菅に侵略した際に社寺が兵火にあった。その後上杉景勝時代に奥社本殿と宮殿は再建されたが、観音堂は再建されなかったという記述があるが、仏塔のことについては分からなかった。
どれも伝えに残るものであり史実であると認めるには疑問が残るが、史料としては有力である。
- 回答プロセス
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『飯山市誌 歴史編 上巻』p356より。
小菅神社には天文十一年(一五四二)五月に別当と衆徒中によって記録された「信濃国高井郡小菅山八所権現並元隆寺来由記」、慶長五年(一六〇〇)五月に別当大聖院が澄舜が記した「信州高井郡小菅山元隆寺縁起」がある。その二つにはどちらも小菅神社のはじまりについて記されている。
なお来由記は延暦以来の蝦夷の反逆が八所権現の神威によって征服できたので大同年中、坂上田村麻呂によって八所権現ならびに加耶吉利堂の堂宇を建立し、新たに元隆寺を興し、金堂・講堂・舞台・三重塔・荒神堂・大門(仁王門)などが整備された事も記している。
『修験の里を歩く』p65では、「この通りだとすると九世紀に元隆寺は整備されたことになる。坂上田村麻呂との関係を主張する寺社は諏訪大社はじめ、長野市の清水寺など、県内にいくつかあり、事実とは考えがたいが、この頃に一つの契機があった可能性はある。」としている。
他小菅神社の塔の記述としては、『新編信濃史料叢書 第十四巻』p3「寺社領由緒書」には「開元平城天皇之御宇大同元丙戌年造栄」とあり、この9行目に塔婆一基とある。
『飯山市誌 歴史編上』p358には永禄九年(一五六六)の「小菅山元隆寺之図」、延停三年(一七四六)をもとにその様子を書いている。
「元隆寺(大聖院)は小菅寺ともいわれ、上之院・中之院・下之院にわかれ、伽藍・僧坊・社祠が軒をならべており、その間を衆徒・山伏・神人・参詣者が行きかい、梵唄の音が山内に耐えることがなかった。」
p358、360には絵図に見える名所をあげ、p3605行目16字目に「塔」一文字のみの記載がある。
『修験の里を歩く』では、この図に関して疑問点は多いが、歴史的価値は高いとしている。
(縁起には小菅社が武田勢の兵火にかかったのが永禄十年となっているが、一般的に川中島の合戦と言われるのが第一次から第四次合戦とされており、第四次合戦が永禄四年であるから縁起とはズレが生じ、永禄九年の図は当時のものではない可能性が出てくるため。このことに関しては、永禄図はこの縁起を一部元として作成されたのではないかと資料では述べている)
廃滅に関してもあたる。
『下高井郡誌』p208では小菅神社の兵火について記載がある。
「本郡瑞穂村の小菅神社の傳説によれば、永享元年八月、小笠原持長、泉嶺に來り、泉持重と戦ひ、敗れて千曲川を渉り、小菅山に入り、宮社院坊を焼却す、持重之を欺き、翌年十月三日より、工を起し、同四年十月に至り、宮観寺塔を改築したり』(小菅神社誌)
資料はこの伝説について、傍証を呼び寄せるものなしといえど、永享年間における小笠原村上両氏の葛藤及びこれに関する前記小笠原系譜の記事等によって、必ずしも荒唐無稽とは言えないと言っている。
同『下高井郡誌』p236から。
「永禄四年九月十日、川中島に於いて、甲越両軍の大激戦あり。最初は越軍優勢なりしが、甲軍の援兵至るに及び、形勢一変し、上杉謙信は部下を率いて北方に退却するのを止むなきに至れり。是に於いて、水内高井地方に於ける上杉氏の勢力範囲は、著しく縮小せられ、本郡岳北地方の如き、亦武田勢の侵入を被り、小菅権現も兵火に罹りて、堂塔藍數十の院坊悉く鳥有に帰し、僅かに奥の院と里宮とを残したるのみ。即ち、本郡は此の時に於いて全く武田氏のために併呑せられ、郡内の豪族皆其の制令受くるに至れり。」
この事から、永禄四年(一五六一)の九月十日の川中島の戦において、武田勢の侵入により堂塔などが兵火にあったことがわかる。その以前上杉氏は弘治三年に飯山城に出陣し小菅社に願文を備えて武田の打倒を図ったが、永禄四年の決戦にて小菅社は焼き払われ、武田氏に制圧された。その後永禄七年、越後弥彦神社、更級郡八幡神社などに願文を収め、武田氏の堂塔などの焼き討ちを非難してその撃滅をはかっている。
PDF資料として、https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h27/teireikai/documents/1004-9.pdf「長野県宝の指定について」(文化財・生涯学習課) p16に元隆寺の概要・草創などがある。
それによると、元隆寺は度々の兵火にあっており、その消失年が「度重なる兵火による回禄(貞治四年/1365、永享元年/1429、永禄四年/1561 又は同七年)等で、」とあることからこちらで三回の焼失の確認が出来る。
また、『下高井郡誌』p541~542の一覧下部の由緒の欄にて、「里宮は永禄年間兵火にて焼失後上杉氏再建 萬治三年飯山城主松平遠江守忠樹再建 (中略)大同以来僧坊四十人神職四戸其他奉待せしも羅災の後絶断し」とある。
この記述以外には、仏塔に関しての記述を追えるものは見つからなかったため、以上をもって案内とした。
<他に閲覧した資料>
『修験道と飯山』(ほおずき書籍 2003.09)
『新編瑞穂村史』(新編瑞穂村史刊行会 1980)p181小菅神社の成立と変還 p511第一節 近世の小菅神社
『飯山小菅の地域文化』(しなのき書房 2005)
『長野県飯山市小菅総合調査報告書』(飯山市教育委員会 2005)
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『飯山市誌 歴史編上』 飯山市誌編纂専門委員会/編集 飯山市 1993 <N211イ1> (p356(小菅神社の成立と変換)、p358(元隆寺の規模))
- 『修験の里を歩く』 笹本 正治/著 高志書院 2009.10 <N181サ> (p62(第二章 小菅と元隆寺の歴史))
- 『新編信濃史料叢書 第十四巻』 信濃史料刊行会/編集 信濃史料刊行会 1976 <N211シ> (p3寺社領並由緒書)
- 『下高井郡誌』 下高井郡役所/編 明治文献 1974 <N214シ>
- 「長野県宝の指定について」(長野県文化財・生涯学習課) (https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h27/teireikai/documents/1004-9.pdf p16~)
- キーワード
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- 飯山
- 小菅山
- 元隆寺
- 小菅神社
- 五重塔
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000196354