当館所蔵の資料のうち、藤堂高虎が築城の技術を習得したことについて触れているものとしては以下のようなものがありました。
ア 『築城の名手藤堂高虎』福井 健二/著 戎光祥出版 2016
p12 「秀長の家臣となった高虎は、秀長の兄である羽柴秀吉の長浜城築城に出仕する。また、天正四年に始まった織田信長の安土城築城では、秀吉も築城奉行の一人であったので、当然、高虎も秀長に従って工事に従事している。この工事で近江坂本の石工である穴太(あのう)衆と出会い、石にも心や目があって、石が座りのよいように工夫することなども学んだと思われる。(後略)」
イ 『歴史と旅』2000年5月号 秋田書店 2000
p82-85 築城術師高虎を生んだもの(西ヶ谷恭弘)
「信長のもとにあって、丹羽長秀と共に数々の築城に携わった信澄に仕えたのが青年時代の藤堂高虎であった。いかに高虎が信澄の影響を色濃く受けたかは、後年、高虎が手掛けた多数の城が、大溝城からヒントを得て港湾を城内に取り込み、方形の本丸を基調とする輪郭式縄張だったことからも窺える。」(p84)
※信澄…織田信澄
ウ 『歴史研究』第493号 歴研 2002
p20-25 藤堂高虎の基礎知識(横山高治)
「高虎が築城の名手とうたわれるのは、(中略)十七城、あるいは朝鮮の築城も含めて二十を超えるという数、戦略的な縄張り(築城設計)のすばらしさだ。(中略)これは天賦の才覚もあるが、やはり恩人の秀長から学び、同郷の甲良大工(建仁寺流)・穴太衆(石積み)をかかえ、すぐれた建設集団を組織した成果だ。秀長は秀吉の「洲俣の一夜城」建設以来、築城の大家で、大和法隆寺流の中井直清を育てた。
中井と甲良大工の甲良宗広は高虎を助け、大坂城攻略の総構え築城ののち幕府の建築統領に出世している。」(p22)
エ 『江戸時代の設計者(講談社現代新書)』藤田 達生/著 講談社 2006
p43 「高虎は、我々が「城」と言った時に思い描く、石垣や天守などをもつ江戸時代の城郭の創始者の一人である。しかし肝心の、どのようにしてそれを考案したのかということは、実はよくわかっていない。
若き日の高虎は、信長や秀吉の築城に関わっている。それらを手伝いながら築城法を学び、また石垣普請の職人集団として有名な近江国坂本出身の穴太衆などの技術者達とも関係を築きながら、腕前を鍛えていったと考えられる。」
オ 『高虎さんのはなし』西田 久光/執筆,津市,津市教育委員会/編集 津市 2008
p37-39 高虎さんのはなし(13) 天守閣のニューモデル創出
「(前略)事実、家康は未だ影響力を持つ豊臣家に対する包囲網形成の天下普請などに高虎を全面的に重用し『当代一の築城の名手』に押し上げる。数多の実戦と城づくりの現場で鍛え上げた知識とアイデア。石垣普請の近江穴太衆、大和法隆寺大工の中井家、粉河瓦師、同じ近江甲良荘出身の京都建仁寺大工の甲良家、養女を嫁がせ義理の息子となった小堀遠州…高虎を支える技術者群は一流であった。」(p37)
カ 『7人の主君を渡り歩いた男 藤堂高虎という生き方』江宮 隆之/著 KADOKAWA 2015
p65-66「(前略)こうした「プラス・アルファ」のほとんどが、秀長に仕えた時代から高虎は身につけている。高虎には、秀長は主君でありながら人生の手本ともいうべき存在であった。
その一つが、築城術であり、ひいては建築関係の知識・技術の習得であった。これらは、秀長を中心とした人脈があった。石垣の普請や建築にかかわる技術者集団が近江や大和の優秀な職人たちであり、秀長は彼らを上手に使いこなした。
「殿、私もさまざまな技術を学びたいのですが、よろしいでしょうか」
高虎の申し入れを秀長は快く承知して、配下になっているこれら職人集団の長たちを高虎に引き合わせた。
これはずっと後までの高虎の交友関係になるが、法隆寺の工匠であり徳川家の大工頭になる中井家(中井正清)や近江甲良荘出身で甲良大工衆の甲良家(甲良宗広)、さらには同じく近江坂本の出身である城郭石垣(穴太積み)の専門集団・穴太衆などにも高虎は学ぶようになる。(後略)」