レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20140131
- 登録日時
- 2016/12/08 13:34
- 更新日時
- 2016/12/20 10:40
- 管理番号
- 新県図-01340
- 質問
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解決
寛保二年の洪水や崩壊の記録がある文献が新潟県内の市町村史、県史、郷土史にあるか
- 回答
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当館で所蔵する資料を調査したところ、下記(1)~(6)の資料に寛保二年の洪水や崩壊に関する記述が見つかりました。
(1)『高田藩制史研究 資料編』第1巻(中村辛一/編 風間書房 1967)
「万年覚」内p24~25、27~30
(2)『中魚沼郡誌』(中魚沼郡教育会/編・発行 1919)
p1304~1305(「第14編 変災」の項内)「同二年、壬戌七月廿九日より、八月三日に亘り、猛雨降り注ぎ、宛然盆を覆すが如く、晝夜間断
を見ず、八朔頃より、信濃川漸く漲溢し、三日四日に至りて、其の極に達し、河水洋々として、濁浪両岸を噛み、信濃より流下する家財器具、及び人畜の死屍、水を覆ふて至る、郡内にて流失の厄に遭ふもの、鹿渡新田にて一戸、押付、島田にて十四戸、高島に二戸、土蔵一棟流失し、足瀧にては全部浸水して、内十六戸流失す、田圃の缺潰に至りては、沿岸にして被害なき處なく、外丸村のみにても八千刈の多きに上る、他は類推すべし、但だ人畜の死傷なかりしは、不幸中の幸といふべし。」
ただし、出典に関する記述はありません。
(3)『新発田藩史料』第1 藩主篇(新発田市史編纂委員会/編 新発田市史刊行事務局 1965)
p70(「御記録 第7」内)「是年 二万五千六百石水損の御届あり」
(4)『長岡市史 通史編』上巻(長岡市/編・発行 1996)
p405(「災害を防ぐ」の項内)「その後も寛保二年(一七四二)までは毎年洪水が続いた。同年、藩は町や村の復興のために幕府から金七〇〇〇両を借用した。」
(5)『新井市史』上巻(新井市史編修委員会/編・発行 1973)
p880(「災害とのたたかい」の項内)「寛保二年(一七四二) 関川など各河川が出水、広嶋、大濁で被害。」
(6)『阿賀野川史』(建設省北陸地方建設局阿賀野川工事事務所/編・発行 1988)
p191(「表1.4.1洪水記録」内)「寛保2 新発田藩領内水害のため25,600石余減収」
p858(「年表」内)「寛保2年 1742 新発田藩領内水害発生。〔1.4.5〕4月に津島屋再開削工事に着手、7月29日完成するが、すぐ洪水のため水制は大破し、通水不能の状態となる。〔2.2.3,(4)〕渡場村で川除の普請を実施〔2.2.11,(3)〕
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 河海工学.河川工学 (517 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 新潟県
- 水害
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000201439