レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012/05/19
- 登録日時
- 2012/06/16 02:00
- 更新日時
- 2012/07/13 15:38
- 管理番号
- 6000008041
- 質問
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解決
丹波国篠山藩ほか、江戸幕府が指定した城々に有事の備荒米(城詰米)がたくわえられていたが、その制度や運用の仕組みについてくわしく調べたい。
- 回答
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日本史用語辞典や日本史事典で概略をつかむことができます。当館所蔵の『江戸の危機管理』(新人物往来社)に柳谷(菊池)慶子氏の論考「城詰米制度の果たした役割」が収録されており、それにより全国の設置状況、役割の変化、運用の様子等を具体的に知ることができます。さらにその基となる論文(近隣では大阪大学附属図書館所蔵)では文書等を引きながら詳細に分析されていますので、城詰米の実態をより深く知るための資料として柳谷慶子氏の「江戸幕府城詰米制の成立」「江戸幕府城詰米制の機能」「江戸幕府城詰米制と藩政」の3論文をご紹介いたします。
(さいごに紹介した論文は当館資料で対応できないため、近隣で所蔵していた大阪大学附属図書館の利用案内をするにとどまった。)
- 回答プロセス
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『日本史用語大辞典』(柏書房)には「しろつめまい」「しろづめごじょうまい」、『日本史用語大事典』(新人物往来社)には「しろづめまい」の項目があり、いずれも「城米」をみるよう指示がでている。
『日本史用語大辞典』Ⅰ「「じょうまい」の項にはつぎのようにあった。
「戦国時代には、戦時用の備えとして貯米していたが、江戸時代に入ると軍事的貯穀だけでなく、備荒貯穀にも行われた。そのため、幕府みずからの貯穀、譜代の諸城に貯えたもの、および幕府直轄地における貯米を城米という。城米は城詰御城米・城詰米ともよばれ、享保一五(一七三〇)年、御用米とよばれるようになった。」(p373)
そこで『国史大辞典』15巻下 事項索引の「城米」をみると、「城米」および「備荒貯蓄」「廻米」ほかにも関連事項のあることがわかった。「城米」の項では1685年頃の総石高、備蓄ヵ所数や地域により送り先を江戸もしくは大坂に分かれていたこと、毎年入替えること、幕府年貢米輸送統制のきびしさ等、おおよそのことは触れてられている。
つぎに「城詰米」をキーワードに蔵書検索すると『江戸の危機管理』(新人物往来社)がヒットしたので内容を確認すると、柳谷慶子「城詰米制度の果たした役割 軍事米から非常用備蓄へ」と題した文章が掲載されていた。それには「城詰米制度の成立」「城詰米の地域的運用」「三都への回送」「藩の管理と運用」「幕末の城詰米運用」の各節が設けられている。1676年の分布地図と岩槻城や忍城の米蔵の位置がわかる絵図も収載されている。本文中に触れられている「江戸幕府城詰米制の成立」(『日本歴史』)、「江戸幕府城詰米制の機能」(『史学雑誌』)、「江戸幕府城詰米制と藩政」(『歴史』)等の著者自身による論考が基になっているようだ。
「城詰米制度の果たした役割」によると、
●幕府の年貢米を総称して「城米」ということもあり、混乱を避けるために著者は「城詰米」という言葉を使用していること
●具体的な城名と備蓄量
●「城の周辺地域の需要に供された場合と、江戸・大坂などの大都市に全国から集中的に回送されて運用された場合」の2様の用途があったこと
●城詰米の管理(備蓄と使用後の補充は幕府負担)は蔵の維持、役人の配置、作業にかかる費用等すべて藩の負担だったため、藩の財政が悪化したら毎年の詰替えが遅れたり、米を腐らせたり、目的外に流用されたりした事実のあったこと
●管理体制のゆるみをただすため幕府が不定期に見分使を派遣したが、効果が見られなかったこと
●軍事米としての用途から飢饉の救援物資等に利用の範囲を広げつつ、幕末には兵糧米として用いられるなど終始軍事米の性質も有していたこと
等々よりくわしく知ることができる。
また書架(日本史)にあった『全集 日本の歴史11 徳川社会のゆらぎ』の第二章「享保と天明の飢饉」には、食糧不足に対応して「一般民衆に対する販売を目的にした」城詰米の活用について記述があった。
- 事前調査事項
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ご相談いただいたときのお話しの中に、篠山藩の分担は3000石と具体的な内容もあったので、資料は定かでないがすでにある程度の知識はお持ちのようだった。
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『江戸の危機管理』山本 博文/編集 (新人物往来社) (p155)
- 『日本の歴史』11 (小学館) (p105)
- キーワード
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- 日本史
- 江戸時代
- 江戸幕府
- 城米
- 御用米
- 城詰米(シロツメマイ)
- 城詰米(ジョウズメマイ)
- 備荒貯蓄(ビコウチョチク)
- 飢饉
- 被災地支援
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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大阪大学附属図書館所蔵の資料により柳谷慶子「江戸幕府城詰米制の成立」と柳谷慶子「江戸幕府城詰米制の機能」の2点を確認した。
●「江戸幕府城詰米制の成立」(『日本歴史』444号、昭和60年5月号)
城詰米研究状況を概括し、用語について検討した後、制度の成立過程について論じている。老中奉書等文書の引用や5年次(1676、1681、1687、1745、1751年)にわたる石高を諸家、直轄地ごとにまとめた表など「城詰米制度の果たした役割」(『江戸の危機管理』)の論拠がよりくわしく示されている。
制度の特徴を著者は以下の5点にまとめている。①城詰米の調達方法は幕府が代金を支給し藩に調達させたり、近隣の幕府領の年貢米を充当したり、元から備蓄していたものを代用したりした。②米蔵をつくる諸費用は幕府による負担③詰替え方法は「毎年七月初旬より藩によって払われ、藩の物成米の初納で新米への詰め換えを行うことが定められている。したがって、詰め替えはすべて藩の責任で行われ、またこの時に要する費用は藩の負担にかかる」④「城詰米は幕府からの預かりものであって、藩の私有物ではない。」⑤「武器と同様に城付とされ、領主が交代してもそのまま次の領主に引き継がれる」
また城詰米の全国配置の特徴として「幕府の全国支配上の要地である北と南の押えの位置、主要街道沿い、および幕領集中地域であり、またとりわけ関東・中部・近畿において集中度が高いこと」をあげ、城詰米設置の藩の特徴として譜代の藩が大勢を占め、一部の外様藩についても「譜代並みの扱いを受けた藩であったこと」を明らかにして、その各藩がさらに輸送上の観点から8段階のいずれかに位置づけられシステム化されていたことを紹介している。
●「江戸幕府城詰米制の機能」(『史学雑誌』96編12号、昭和62年)
城詰米の幕府による運用と機能に着目した論考。
これによると実際の運用手続きは、運用を決定した幕府から「回送の場所・期限とともに関連諸藩に通達」がある。実際の作業を担当するのは幕府勘定方役人で、回送された米の受取り現場では御蔵奉行が指揮する。藩の担当者は幕府勘定所と調整し、期日までに指定された分量を江戸なり大坂なり指定されたところへ回送することになる。「ただし輸送条件が悪かったり、新穀への詰替作業中にあたるなどして指定量の回送米が揃わない場合には若干の期限の延期が認められることもあり、これは江戸藩邸留守居と幕府勘定方役人の折衝に委ねられていた。」回送される米は実際に城の米蔵から運び出されることもあるが、「藩内で売却し換金した代金を幕府御金蔵に納めたり、のちには江戸で他国米を買納める方策も採られ(中略)内陸部に位置して輸送負担の大きい藩では現米による輸送を避ける意向が強かったようだが、こうした施策もすべて藩と幕府勘定方役人の交渉次第であった」ということである。
また輸送の費用は幕府の負担で行われるが、藩側の役人や作業員への手当は藩の負担とされており、藩財政への影響も小さくはなかったそうだ。使用された城詰米の補充は「近隣の幕領年貢米や幕府御金蔵から支払われた代金で藩が買納めることによって」行われ、そのタイミングは直後のこともあれば米価の推移をみて4、5年を経て実施されることもあったようだ。
享保一七年(1732年)に行われた飢饉対策の城詰米運用の詳細は、回送元と回送量(石高)、回送先と受け渡しの様子(豊後府内城の城詰米は佐賀関で大坂町奉行与力へ引渡された)など細かく記述されている。またこの他に行われた城詰米の運用13回についても分析されており、質問にあった篠山城の運用状況を知ることもできる。
全国的な動きとともに個別の事情に応じて運用されることもあったようで、ほかに①日光への回送②長崎への回送③松前藩への回送④対馬藩への回送⑤周辺幕領への貸付⑥将軍上洛の準備米⑦預かり藩への貸付⑧藩の兵粮米それぞれについて論じてあり、城詰米の性格を知るうえで貴重な論考となっている。
●篠山藩については他に『藩史大事典5 近畿編』(雄山閣出版)に領内の米蔵は福住蔵、城内三の丸蔵、波賀野蔵の3ヵ所と「別に幕府公儀用の城詰米三〇〇〇石の米蔵が城内にあった」(p425)としている。また同書では領主青山氏から大坂城代を出していることも藩主一覧を見るとわかる。(大坂城代については『讀史備要』(講談社)p499、『讀史總覽』(人物往来社)p631でも確認できる。)
篠山城の縄張りは『日本城郭大系12 大坂・兵庫』(新人物往来社)に載っているが、「米倉」と表示されているものが城詰米を収納していた蔵にあたるのかどうか判断できなかった。
●『江戸武家事典』(青蛙房)に「城附米の処分は許可制」という項目あり
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000107294