レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/12/21
- 登録日時
- 2016/04/01 00:30
- 更新日時
- 2016/04/01 00:30
- 管理番号
- 1000000851
- 質問
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解決
沖縄戦の頃、暁部隊が沖縄で行った造船について知りたい。
- 回答
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①
『慰安婦たちの太平洋戦争』(山田 盟子 著、光人社、1992.6)
p98-100 「船大工の徴用」の項目で、p99 「わけても、五百隻の船作りがはじめられた。中央統帥部でも船の徴発や造船は、昭和十七年七月一日以来、たえず連絡会議がもたれていた。」の記述がある。
p100 「中央統帥部の憂慮を察知した第三十二軍では、五百隻の現地生産にふみきり、山原の船大工を全員名護に徴用した。朝鮮軍夫は二十歳代の元気な若者たちで、名護神社の東川の幸地川拝所から、松の木を切り倒して運搬した。百人近い兵と百人の徴用大工、舟大工、わけても軍夫は大兼久浜の造船所まで材木の搬出をした。ところが、空襲が激しくなり、一隻の完成とやりかけの数隻をのこし、大宜味出身の大工は喜如嘉まで逃げた。」の記述がある。
②
『哀号 朝鮮人の沖縄戦』(福地 曠昭 著、月刊沖縄社、1986.6)
p59-67 「北部の山では資材切り出し」の項目で、p59 「造船のための大木の切り出し運搬にもつかわれている。球部隊本部から「五百隻の船をつくれ」との命をうけ、山原の船大工が全員名護に徴用されたころのことである。」の記述がある。
p60-61 「球部隊本部からは「五百隻の船をつくれ」との命令をうけて、急ピッチの造船作業であった。百人近い兵隊ばかりでなく、沖縄人も百人徴用されていた。大工や舟ゼーク(大工)も全員徴用されていた。(中略)結果は一隻だけが完成して進水した。屋部の浜、大兼久浜の造船所で各二隻づつの数隻が七~八分通り完成しただけに終わった。」の記述がある。
③
『5000年の記憶』(「5000年の記憶」編集委員会 編、名護市役所、2000.7)
p172 「1944年(昭和19)7月」の項目で、「暁部隊、造船用材として名護町の銭川森の松林(風致林)を伐採する。」の記述がある。
④
『しらが杜の栄え』(喜瀬字誌編集委員会 編、[名護市喜瀬区]、2009.10)
p124 「私の戦争体験 大田喜明」で、「喜瀬には建木舎という暁部隊の船舶班、二〇名位が駐留していて、山から松材を切り出し、輸送船で中南部へ送り出していた。」の記述がある。
インターネット上の情報(2015.5.11現在)
『DIGニュースレター』(戦争体験を掘り起こす会 [編]・刊)
※戦争体験を掘り起こす会の会報。会長の故小島清文さんの戦争体験に関する著作は多数ある。
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/hanaga01.htm
2007年10月号
軍属・船大工の転戦〈1〉 羽永 豊市
「第七野戦船舶廠沖縄支廠(船舶修理部隊) 第七野戦船舶廠・沖縄支廠(本廠は台湾・基隆)は暁第19808部隊と称し、隊長は古屋憲六技術少佐。沖縄那覇にあった第七船舶輸送司令部・暁第4500部隊・平賀又男中佐の下で那覇港沿岸垣花町に部隊本部(10・10空襲前は製氷工場を置き、垣花沿岸を船舶修理場とし、小禄海軍壕隣に防空壕工場(旋盤・電気・自動車・溶接等を修理)を置き、第五海上挺身基地本部・暁第19773部隊・三池明少佐の下で海上挺身基地大隊に出張修理(主に船大工)を以って任務とし、那覇港垣花沿岸では木造輸送船舶の修理を担当していた。」の記述がある。
「暁部隊船舶修理隊に軍属として入隊 昭和19年10月 磯部新作は船大工でした。」の記述がある。
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/hanaga04.htm
2008年1月号
軍属・船大工の転戦〈4〉 羽永 豊市
「特攻挺進艇(マルレ特攻艇)新造船命令 暁部隊修理班の隊長は技術少佐です。入隊して現在まで技術少佐が船大工と話すことはありませんでした。ところが少佐が副官を伴って船大工班に来たのです。副官は図面を持っています。海上特攻艇の船図面でした。少佐は「軍司令官の命令で暁部隊修理隊軍属船大工に特攻挺進艇の造船を命ずる」新造船の造船作業の命令です。修理ではありません。船大工は船図面を見て、故郷の造船場で船を造った経験がありますので馴れていました。問題は何処で造船をするのか? 造船用木材はあるのか?でした。沖縄本島の海岸線は敵の軍艦が二重に囲み、大砲を海岸に向けています。糸満の基地戦隊の濠は造船場には最適の場所ですが、敵から常に監視されています。造船の場所は小禄の防空壕と決めました。」の記述がある。
「挺進艇・新造船「安全祈願式」 小禄防空壕内 昭和20年4月○日」の記述がある。
http://homepage2.nifty.com/DIG-Japan/hanaga05.htm
2008年2月号
軍属・船大工の転戦〈5〉 羽永 豊市
「防空壕内には5艇が造船出来る船台を取り付けました。船大工は新しく船を造る時には「船の安全」を祈って、祈願祭をする習わしがあります。その儀式を行うか?どうかで意見が分かれました。儀式の意味と挺進艇の任務の目的が異なるからです。「船の安全を祈願しても所詮不幸を背負って造られる船に幸は存在しない」とする考えと、船の運命はともかく、船を造ることに船大工は祈願するのだ。意見は各々の地方の習慣でも分かれました。新造船儀式を行うにしても神に捧げる酒も肴もありません。女性の髪の毛も飾る習慣ですが、男ばかりの軍属です。それでも造船を始める祝いとして夕食にてんぷらが出ました。」の記述がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 1 慰安婦たちの太平洋戦争 山田 盟子∥著 光人社 1992.6 K96/Y19 p98-100
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2 哀号 朝鮮人の沖縄戦 福地 曠昭∥著 月刊沖縄社 1986.6 K96/F74 p59-67 -
3 5000年の記憶 「5000年の記憶」編集委員会∥編 名護市役所 2000.7 K21/N26 p172 -
4 しらが杜の栄え 喜瀬字誌編集委員会∥編 [名護市喜瀬区] 2009.10 K21/KI55 p124
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000190578