レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年02月19日
- 登録日時
- 2015/01/16 17:48
- 更新日時
- 2015/03/11 11:47
- 管理番号
- 埼熊-2014-087
- 質問
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未解決
黒田官兵衛の祖父の時代の目薬とその処方が知りたい。
- 回答
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以下の資料に黒田官兵衛の祖父・重隆が「玲珠膏」という目薬を売って財を築いた、との記述があったが、処方に関する資料は見つからなかった。
『黒田如水のすべて』(安藤英男編 新人物往来社 1992)
p31「井口太夫は黒田家伝来の目薬を製造・販売することを勧めた。〔黒田〕重隆は竹森・井口氏らの協力を得て、目薬を売って米銭を稼ぎ、田畑を買い、財を築いたといわれる。(中略)また、黒田家家伝の目薬は「玲珠膏」といい、のち如水の妹婿、三木清閑の家に伝えられたという。」
『姫路市史 14 別編』(姫路市 1988)
p207「重隆が家伝の目薬を調合し、広峰社の祈祷札につけて播磨一円頒布して財をなし、その財をもって家臣を召し抱えて頭角をあらわしたという『夢幻物語』の説は事実らしく、薬草の本場伊吹山の西麓に近い黒田村出身というのも根拠のない説ではなさそうである。」
- 回答プロセス
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1 以下の参考図書を確認するが該当なし
『国史大辞典 15』(吉川弘文館 1984)
『日本歴史大辞典 10』(河出書房 1968)など
2 黒田官兵衛の伝記や一般書を調べる
『黒田如水のすべて』(前掲)
『姫路城史 上』(橋本政次著 姫路城史刊行會 1952)
p189「重隆、目薬を鬻(ひさ)ぐ」の項に、「夢幻物語」を典拠とした記述あり。
『物語福岡藩史』(安川巌著 文献出版 1985)
p4「目薬 玲珠膏」の項
「しかし、「黒田家譜」は目薬「玲珠膏」のことには全然ふれてはいない。旧藩士長野誠(芳斎)が著わした「閲史筌蹄」も、この説を「妄説多くして採用すべき事なし」と否定している。」とあり。
『司馬遼太郎全集 33 播磨灘物語』(司馬遼太郎著 文藝春秋 1983)
フィクションであるが、以下の記述あり。
p34「黒田氏の本貫の地である北近江につたわっている薬で、製法はごく簡単である。山に葉に毛のはえているカエデ科の木がある。北近江では『目薬の木』というのだが、その樹皮をとってきて砕く。それを赤い絹の袋につつんで煎じ、その袋ごとを目にあてて煎じ汁を滴らせるのである。」
p39「人手というのは、山から目薬の木の樹皮を剥いでくる者、それを砕く者、薬研で研る者、容器の貝殻をあつめにゆく者、その貝殻は、かならず大ハマグリでなければならず、できるだけ大きさもそろっていなければならない。また薬を包む紅絹の染めもやらねば
ならず、すべてを自家製でおこなうために人手が多く要るのである。」
3 《レファ協DB》を〈目薬〉で検索、以下の情報が該当したので参考資料を確認する
「江戸時代の目薬について書かれた資料を見たい。」(https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000108043 国会図 2014/2/11最終確認)
『薬文化往来』(天野宏著 青蛙房 1992)
p16-32「第一章 薬文化の出発」に室町時代の薬史の概略があるが、玲珠膏に関する記述なし。
4 《Google》を〈玲珠膏〉で検索、以下の情報が該当する
《姫路獨協大学 大学院最新情報詳細》「はりま歴史講座「姫路が生んだ戦国武将 黒田官兵衛」(第10講・最終回)報告 [地域連携課・播磨総合研究所・播磨会]」に、以下の記述あり。
「本多〔義昭〕学長は、薬学研究者の立場から、黒田家の目薬について、当時の目薬はどんなものだったなど、「目薬の木」と「玲珠膏」を中心に解説されました。ドラマでは、塗り薬のような目薬として描かれているが、当時の目薬がどんなものだったかは、ほとんど資料が残っておらずわからないとのことでした。」(http://www.himeji-du.ac.jp/faculty/grand/news/details.php?id=1788 姫路獨協大学 2014/02/12最終確認)
- 事前調査事項
- NDC
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- 薬学 (499 9版)
- 参考資料
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- 『黒田如水のすべて』(安藤英男編 新人物往来社 1992) , ISBN 4-404-01955-6
- 『姫路市史 14 別編』(姫路市 1988)
- キーワード
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- 目薬
- 玲珠膏
- 黒田 孝高(クロダ ヨシタカ)
- 黒田 重隆(クロダ シゲタカ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000166258