レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010/09/24
- 登録日時
- 2012/12/29 02:00
- 更新日時
- 2012/12/29 02:00
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-100359
- 質問
-
解決
青葉城が取り壊されたことについて,その時期と,理由が書いてある資料を探しています。
- 回答
-
以下の資料に記述があります。なお,【】内は当館請求記号です。
資料1 逸見 英夫『仙台城歴史散策』宮城文化協会, 1988【K205/へ1】
p.68 「第二師団時代 仙台城開城への道」の章に次の記述があります。
「(略)政府が廃城令を出したのは明治四年のことで,旧藩庁であった城郭の機能廃止と施設の取り壊しを命じている。仙台城の取り壊しが行われたのは,明治六年内務省が設置されたこの直後のことと思われるが,それを明らかにする記録は残されていない。(略)」
p.70「仙台城秘話 仙台城本丸を壊したとしは?」の章に次の記述があります。
「仙台城本丸は,いつ取り壊されたのかとなると,いくつかの説がある。
(1)小倉強著「仙台城の建築」(仙台高等工業学校・昭和五年刊)によると明治四,五年頃,(2)仙台市史図録編さん委員会編「目で見る仙台の歴史」(仙台市・昭和三十四年刊)では明治五年,(3)仙台市文化財保護委員会編「仙台城」(仙台市教育委員会・昭和四十二年刊)は「明治八乙亥(一八七五)旧本丸大広間その他を悉く(ことごとく)破却し,民間に払い下ぐ。城内の礎石,城壁上層の一重等を榴ヶ岡歩兵第四連隊兵舎に供す」と記している。(4)伊勢斉助著「奥羽観蹟聞老志補修編」をひもとくと,また他の年が書かれている。(略)この書に大槻文彦著「仙台城本丸御殿記」を引用している。ここには「明治七年陸軍省にて悉皆(しっかい・ことごとく)撤去と書かれてある。(略)
明治元年十二月から四年十一月七日までは,本丸と二の丸は,仙台藩その後仙台県の所有であった。十一月八日に,仙台県宛に東北鎮台本営が「本丸 二の丸 右見証済請取候也」と書いたように,八日の日からは鎮台,すなわち兵部省(後の陸軍省)の所有となった。このときまでは,本丸は存在していた。
陸軍省の所管(略)「諸国存城調書」には,「現今城郭ナシ」のところには○印が附されているが,仙台城には○印がないから,明治五年までは,本丸は保存されていたといえよう。
榴ヶ岡の洋風の兵舎が完成したのは,明治七年九月十日。翌十一日に第二大隊(のちの歩兵四連隊)が入った。(略)
榴ヶ岡の兵舎は,明治六年から建築が始まっている。仙台城の老杉,石垣が資材に用いられたという。そうであるならば,明治六年一月以降七年にかけて取り壊されたというべきである。」
資料2 仙台市史編さん委員会編『仙台市史 通史編6』仙台市, 2008【K225/セ1-13/6】
pp.52-53
「仙台本丸は一八七四年(明治七)に取り壊されたと伝えられ,その資材の一部は榴ヶ岡の歩兵第四連隊兵舎建築に使用されたという。鎮台施設となっていた二の丸の建物も一八八二年(明治一五)九月七日の火災でそのほとんどを消失した。」
資料3 仙台市図録編纂委員会編『目で見る仙台の歴史』宝文堂出版, 1975【K225/セ1-10】
p.35「本丸大広間(略)仙台城本丸にあった大広間は(略)明治五年頃取りこわされた。」
p.53「二の丸(略)明治二年ここに勤政庁が置かれ,同年四年東北鎮台にあてられた。明治十五年九月全焼し,そのあとに第二師団司令部が出来た。」
資料4 仙台市文化財保護委員会編『仙台城』仙台市教育委員会, 1967【K521/セ1/A】
pp.1-22「仙台城の歴史」(伊東信夫/著)の章に次の記述があります。
p.20「戊辰の役に仙台藩は官軍に抗した故をもって六十二万石から二十八万石に減封されたが,城は依然として仙台城であった。明治二年に版籍奉還がおこなわれて藩主伊達亀三郎は仙台藩知事に任命された。同年十月二の丸に勤政庁が置かれ,翌三年二月,勤政庁は藩庁と改称された。さらに明治四年七月,廃藩置県が断行され,それにともなって仙台城は兵部省の管轄に移り,二の丸には東北鎮台が置かれた。藩政時代にも儀式の際にしか使用されなかった本丸の建物は,このような状勢下では全くの不要のものとなり,明治四・五年の頃、取壊されてしまった。(略)二の丸の建物もまた明治十五年九月七日に火災によって全焼した。最後までのこった大手門も昭和二十年七月十日の空襲の際焼失したので,いまは本丸および大手門左右の石垣がわずかに昔のおもかげを伝えているだけである。」
pp.215-238「仙台城年表」(三原良吉著)の章に次の記述があります。
p.231「明治八 乙亥 一八七五 旧本丸大広間その他を悉く破却し民間に払い下ぐ。城内の礎石,城壁の上層の一重等を榴ヶ岡歩兵四聯隊兵舎に供す」
資料5 小倉 強『仙台城の建築』仙台高等工業学校, 1930【K521/オ1】
p.9「本丸の旧建築 仙台城の本丸の建築は慶長七年一先づ成り,慶長十五年中心たるべき大広間が落成した。(略)明治二年藩籍奉還後明治四,五年頃取毀されたのである。」
資料6 河北新報社編集局編『仙台藩ものがたり』河北新報社, 2002【K205/026】
p.226「戊辰戦争の敗北で仙台城は新政府軍に接収され,本丸は一八七三、四年ごろ解体された。二の丸には東北鎮台が置かれたが,八二年の火災で全焼。」
資料7 仙台郷土研究会編『仙台藩歴史事典』仙台郷土研究会, 2002【K205/026】
pp.78-82「仙台城・青葉山関連年表」の章に次の記述があります。
p.81「明治8(1875) この年までに旧本丸の建物を取壊し,民間に払い下げる。城内の礎石等を榴ヶ岡の歩兵4連隊兵舎に転用する。」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 仙台城
- 青葉城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000117668