当館の資料で孫文について書かれたものを調べたところ、以下の資料で山田良政について記述が見られた。
①p668~670「第五部雑録 十二 山田良政の生と死 松本武彦」の項目があり、山田良政の顔写真の掲載もあった。「山田は、青森県弘前の人で、1868年1月生まれ、青森師範卒業後、一時、上海におり、1899年に孫文が日本に亡命して来た時に初めて出会っている」との記述が見られる。また「革命運動において命を落とした最初の外国人となったのである。33歳であったという。」との記述もあった。1919年10月、青森県弘前市の山田家菩提寺貞昌寺に、孫文の書により、山田良政の記念碑が建てられたこと、その碑文の内容も記述がある資料であった。
②山田良政に関する記述があった。良政が清国と関係を持つようになったきっかけは、近所に住んでいた陸羯南の影響だったことや、日本で行われた法要の様子などを写真で見ることができる資料である。愛知大学が所有している多数の写真資料が掲載されており、孫文の書による記念碑や良政が書いた手紙、辮髪で中国服を着用いている良政の写真など見ることができる資料である。
③「第8章 孫文と梅屋庄吉・頭山満・山田兄弟・南方熊楠 3 山田兄弟と孫文」の項目があり、山田良政の略歴が示してあり、生まれから死去して享年33歳で生涯を閉じるまでが簡単に書かれてあった。また良政の人柄や革命に参加している様子などの記述が見られた。
④p283「第14章広東を奪取せよ 恵州事件の顛末 日中合作革命」に山田良政の記述があった。「青森出身の山田良政は北海道昆布会社の上海支店員だったが、戊戌政変の後に、平山周とともに梁啓超、王照が日本へ亡命した際に一役買っていた。」という記述が見られる。同じくp296~297「第14章広東を奪取せよ 恵州事件の顛末 日本人最初の犠牲者」に「鄭士良に従った山田良政は、虎頭山中で道に迷って国軍の銃撃を受けて死亡した。」との記述が見られた。また孫文による記念碑建立、石碑の碑文の言葉も書かれていた。
⑤著者が山田良政ゆかりの地を訪れ、その地の説明や豊富な写真が掲載されている。また生前関係のあった人々による山田良政死去を悼む文章が転記されている。また山田良政と弟純三郎の年表があり、当時の中国や日本との関連も見ることができる。
⑥「故山田良政君建碑式 十月廿四日 仙臺にて」との項目があった。山田良政の記念碑建立式への出席の様子などを著者視点で日記調に書かれた資料である。