レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012/08/30
- 登録日時
- 2015/03/16 00:30
- 更新日時
- 2015/09/02 18:17
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-140076
- 質問
-
解決
下記資料に「馬打ち」という言葉が出てくるが,このことについてもう少し詳しく説明されている資料はないか。
高橋富雄『宮城県の歴史』山川出版社, 1969.【K201/タ1】
p.112.「伊達氏は南東北の分国領のほかに,"馬打ち"といって,中奥葛西・大崎領まで勢力範囲とした。」
- 回答
-
下記資料に記述があります。なお,【 】内は当館請求記号です。
資料1 角田市史編さん委員会編『角田市史 別巻 2』角田市, 1986.【K215.2/カ2/5】
p.86「金原保は(中略)相馬氏の支配に帰したのではないかとされています。(中略)しかし全く伊達に関係なかったのではなくて,伊達の安定した支配が確立していなかった準領というようなことだったと考えられます。当時のことばで言いますと,馬打ちということになります。」
資料2 小林清治『伊達政宗』吉川弘文館, 1959.【K289/タ3-6】
p.145.「留守・国分・田村・白河・石川の諸氏は与力と呼ばれるべきものであった。それらの領地は「伊達馬打」といって,その兵馬の権をすべて伊達氏に握られていた。」
資料3 仙台市史編さん委員会編『仙台市史 通史編2』仙台市, 2000.【K225/セ1-13/2】
p.405.「翌一五八九年(天正一七),大崎義隆は最上義光の仲介によって政宗との間で三カ条の和議を結んだ。その第一は「伊達の馬打ち同前」と記すものであり,その意味は伊達氏が大崎氏の兵馬を自由に動かすことができることだ,といわれている。」
資料4 仙台市史編さん委員会編『仙台市史 資料編10』仙台市, 1994.【K225/セ1-13/19A】
pp.222-223に,資料3の記述の典拠である伊達政宗文書「中島伊勢守宛書状」(天正17年4月18日)が収録されており,「一大崎向後者,伊達馬打同前之事」とあります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 伊達の馬打ち
- 伊達馬打
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000169093