レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2007/10/05
- 登録日時
- 2008/04/04 02:11
- 更新日時
- 2008/04/08 13:13
- 管理番号
- 埼熊-2007-091
- 質問
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解決
諸井六郎『徳川時代之武蔵本庄』(明治45年刊)に、〈本庄隼人正近朝(ホンジョウハヤトノショウチカトモ)〉は秀吉の小田原攻めの時に、城に籠城し自害をしたとの記録があるが、古記を引用したもので詳しい記載がない。その他の説があるのかどうか、関係資料があれば教えてほしい。
- 回答
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天正18年(1590)豊臣秀吉は全国統一に向け北条氏に従う関東諸城への攻撃を開始。本庄城には前田利家が布陣し、本庄氏一門は城を捨てて退去。隼人近朝は北条氏の居城である小田原城に詰めていたが、小田原城の落城とともに自害する・・・とあり。(『本庄事典』p144より)
以下、関係資料を紹介する。
①『江戸時代本庄史』(諸井六郎著 歴史図書社)p14に自害とある記述を確認する。『徳川時代之武蔵本庄』の解題復刻版である。
②『本庄市史 通史編 2』(本庄市)p127に、「慈恩寺快誉古記」によると小田原城に籠城した本庄隼人正は小田原城で自害し・・・と記載がある。
③『本庄市史 通史編3』別冊の「本庄歴史年表」p35に、1590年5月豊臣秀吉の攻撃を受け小田原城が落城、城詰の本庄隼人正近朝は城内で自害と記述あり。
④『埼玉本庄郷土史話』(郷土史研究会)p104に本庄隼人正は2か月前から小田原城につめていたため落城のときに自害してしまったとあり。
⑤『武州本庄宿ふるさと人物史 1』(本庄市)「幻の本庄城」の項p7に、「天正18年(1590)7月本庄城落城の2か月前小田原城中にありその落城とともに自害して果てたと史実にある」と記載されている。
⑥『本庄歴史缶 ビジュアルヒストリー』(本庄市教育委員会)p37に自害と記述あり。
- 回答プロセス
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『徳川時代之武蔵本庄』およびその解題復刻版『江戸時代本庄史』(諸井六郎 歴史図社)p14にある記述を確認する。典拠資料「慈恩寺快誉古記」の所在はわからず、本庄市関係の郷土資料を探索した。
小田原城籠城の家臣団一覧については『小田原合戦』(名著出版)ほか合戦関係資料にあたり、家臣名は散見するが、籠城した人名の一覧は見つからなかった。
- 事前調査事項
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明治45年刊の諸井六郎著作『徳川時代之武蔵本庄』に、「慈恩寺に安置せるもの・・・其古記には、(中略)領主本庄隼人正天正18年5月於相州小田原城御自害、法名宣宗朝光大禅定門」とあり。
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『本庄人物事典』(柴崎起三雄 2003)
- 『徳川時代之武蔵本庄』(学海指針社)
- 『江戸時代本庄史』(諸井六郎 歴史図書社)
- 『本庄市史 通史編 2』
- 『本庄市史 通史編3』別冊「本庄歴史年表」
- 『埼玉本庄郷土史話』(郷土史研究会)
- 『武州本庄宿ふるさと人物史 1』(本庄市)
- 『本庄歴史缶 ビジュアルヒストリー』(本庄市教育委員会)
- キーワード
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- 本庄 隼人正近朝(ホンジョウ ハヤトノショウチカトモ)
- 小田原城
- 戦国時代
- 本庄市-埼玉県
- 史料
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000043369