小村寿太郎(こむら・じゅたろう、1855~1911)の日本外交史上における業績として、一度目の外相時代の1902年(明治35年)に日英同盟を推進したことや、1905年(明治38年)ポーツマス講和会議の日本側全権としてロシアと交渉し、日露講和条約を締結したことが特に知られています。また、二度目の外相時代の1911年(明治44年)には諸外国との条約改正交渉において税権(関税自主権)を回復し、最終的な条約改正を達成したこともよく知られているところです。外交史料館では、これらの事柄に関連する文書、条約書などの原本を多数所蔵しており、多くの文書が『日本外交文書』に採録されています。
そうした小村の外交的足跡を知る上で参考になるのが、外務省が編纂した小村の伝記である『小村外交史』(昭和28年刊行)です。この伝記は大正期から出版が計画されていたもので、外務省の委嘱を受けた国際法学者の信夫淳平博士が「侯爵小村寿太郎伝」として草稿を書き上げたものの、諸事情から刊行が遅れ、戦後に大幅に改訂されて世に出されました。外交史料館では、公刊された『小村外交史』及び、その改訂前の草稿である「侯爵小村寿太郎伝」をご覧いただけます。『小村外交史』は、外交史料館ホームページ内「日本外交文書デジタルアーカイブ」でもご覧いただけます。
なお、小村には1875年(明治8年)に第一回文部省留学生として米国に渡り、ハーバード大学で法学を学んだという経歴があります。外交史料館では、この時留学生に選抜された小村を含む11名の集合写真を所蔵しています。また、この留学時の旅券の写しが外務省記録「海外旅券勘合簿 本省之部」に収録されています。当時の旅券発給記録には申請者の身体的特徴が記述されており、それによれば19歳の小村は「鼻高き方/口小さき方/面長き方/色白き方」で、身長は「五尺一寸五分(約156センチメートル)」であったことがわかります。
(注)日本外交文書デジタルアーカイブ
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/index.html