レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年12月15日
- 登録日時
- 2018/12/14 00:30
- 更新日時
- 2020/04/04 00:30
- 管理番号
- 3A18002614
- 質問
-
未解決
淀屋橋の西南にある「魚の棚筋」というネーミングの由来を教えて下さい。
- 回答
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ネーミングの由来についての記述は見つかりませんでした。
関連する記述のあった資料をご紹介します。
・『大坂町鑑集成』(有坂隆道、藤本篤編 清文堂 1976)には、宝暦6年(1756)刊、天保13年(1842)刊、明治3年(1870)刊の大坂町鑑が収録されていますが、その中の一書『増補大坂町鑑』(天保13年)翻刻p.196 の「魚(うを)の棚筋(たなすぢ)」の項には「西横堀より一筋東之丁、北浜より南へ、又てんま市のかハより内にもあり」とのみ記載されています。「万代大坂町鑑」(宝暦6年刊)、「増補大坂町鑑」(明治3年刊)もほぼ同じ記述でした。
・商用データベース「Japanowledge」(日本歴史地名大系)(2020.3.24確認)
「渡辺筋」の項に、「御霊(ごりょう)筋の一筋西の筋。南北の御堂(みどう)の裏筋にあたるが、南御堂(現難波別院)裏は坐摩(ざま)神社表門筋になる。北の部分を魚(うお)の棚(たな)筋とよび、同社の南北を渡辺筋といった(天保町鑑)。(略)」とあります。
・『郷土研究 3』(名著出版 1984)収録の『郷土研究』第3巻 第1号(郷土研究社 大正4年刊)
p.61に「魚の棚は魚の店にて、各地の魚類市場ある地を魚町・魚河岸など云ふと同じ意味の地名では無きか。大阪にも小生の知れる魚の棚二箇所あり。其一は今の天満市場に在り。(略)今一つの魚の棚は、船場の西部、西横堀川の東岸濱通りの裏手筋を謂ふ。今のざこ場も安治川尻より見れば良い加減奥の方である。其ざこ場より推し考へて、この魚の棚邊に魚市場のあつたことも想像が出来る。(後略)」とあります。
この資料によると「魚の棚」は、「天満市場」と、「船場の西部」に二箇所あり、おたずねの淀屋橋の西南にある「魚の棚筋」は、「船場の西部」とかかれているほうかと存じます。こちらについては、以下の資料に記述があるものの、具体的に由来を明記した資料は見つかりませんでした。ご参考までに紹介いたします。
・『上方 第2巻(下)』復刻版 (新和出版社1969)収録の『上方』第24号(創元社 昭和7年刊)
p.23に「西横堀より一筋東、北浜南を魚の店と称し魚市場のあつた地で(後略)」とあります。
・『船場』(宮本又次著 ミネルヴァ書房 2008)(初版:昭和35年刊 復刻)
p.12「西横堀より東へ一筋目、北浜の南を魚の店と称し、古くは魚市場のあった所である。(略)また渡辺筋といった。」とあります。
- 回答プロセス
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1.商用データベース「JapanKnowledge」で”魚の棚筋”を検索。「日本歴史地名大系」の「渡辺筋」の項に「魚の棚筋」あり。(資料1)
2.当館データベース「大阪関係資料目次検索」(外部非公開)および、大阪府立中之島図書館「おおさかポータル」 (http://www.library.pref.osaka.jp/site/osakaportal/ 2020.3.24確認)で”魚の棚筋”をキーワードに検索するがヒットせず。
3.インターネット「Googlebooks」で”魚の棚筋”をキーワードに検索し、ヒットした資料を確認。(資料2、3、4、5)
4.東区、船場等の関する資料を確認。由来に関する記載のあるものは見つからず。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <0080298891> 郷土研究 3 3巻1号〜3巻12号 郷土研究社 1915.3-1916.3 (資料2)
- 当館書誌ID <0000245124> 上方 -郷土研究- 2下 自第十九号(昭和七年七月)至第二十四号(昭和七年十二月) 上方刊行会/監修 新和出版社 1969.10 (資料3)
- 当館書誌ID <0011699993> 船場(ミネルヴァ・アーカイブズ) 宮本 又次/著 ミネルヴァ書房 2008.7 978-4-623-05211-0 (資料4)
- 当館書誌ID <0000157090> 大坂町鑑集成(清文堂史料叢書 第11刊) 有坂 隆道/編 清文堂出版 1982 (資料5)
- 商用データベース「Japanowledge」(日本歴史地名大系)(2018.12.19確認) (資料1)
- キーワード
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- 魚の棚筋
- 渡辺筋
- 魚の棚
- 魚市場
- 大阪府大阪市
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000248352