明治期の桜の寄贈に関する記録は、外務省記録「帝国及諸外国人間物品贈答雑件」に収録されています。
1909年(明治42年)6月頃、タフト大統領夫人をはじめとする米国の婦人グループは、ワシントンを流れるポトマック川のほとりに公園を整備するにあたり、日本から桜を買い入れて植樹する計画を立てました。この計画を伝え聞いた水野幸吉(みずの・こうきち)在ニューヨーク総領事や高平小五郎(たかひら・こごろう)駐米大使は、植樹される桜を日本から寄贈すれば、長らく日米友好の記念になると考え、日本の首都である東京市の名義で桜を寄贈することを、外務本省に意見具申しました。
外務省からの照会に対し、尾崎行雄(おざき・ゆきお)東京市長が快く同意したため、1910年(明治43年)11月、東京市で選り抜かれた2000本の桜が、ワシントンに輸送されました。ところが、到着した桜を米国農商務省の専門家が検分したところ、害虫が多種発生しており、消毒も植樹も不可能と判断されたため、やむを得ず輸送された全ての桜が焼却処分されました。
この結果は、米国大統領夫妻をはじめとする関係筋を落胆させました。そこで、外務省は再度東京市に桜の寄贈を依頼し、同市もこれに応じました。そして、1912年(明治45年)2月、改めて3000本の桜が東京からワシントンに輸送されました。今度は全ての桜が無事に現地に届けられ、大統領夫人からは東京市に感謝状が贈られました。また、これと同時にニューヨークにも桜が贈られ、ハドソン河畔の広場で贈呈式が行われたとの記録も残っています。
この桜の寄贈をきっかけに、ワシントンなどで定期的に桜祭りが開催されるようになり、現在に至るまで日米交流に一役買っています。なお、戦後の米国での桜祭に関する記録として、第17回外交記録公開で公開された外務省記録「諸外国における桜祭関係 ワシントン桜祭」などがあります。