レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014年02月01日
- 登録日時
- 2014/11/25 16:34
- 更新日時
- 2014/12/24 15:42
- 管理番号
- 市川20140201-03
- 質問
-
未解決
内藤鳴雪(ないとう めいせつ 1847~1926)が日本橋で教師を始めたのはいつのことか。
- 回答
-
鳴雪が日本橋で教師をしていたという記録は発見できなかった。
『鳴雪自叙伝』(内藤鳴雪/著 岩波書店 2002)によると、鳴雪は1847年江戸で生まれ、1857年に父母の故郷である松山(現愛媛県松山市)へ行く。
1880(明治13)年東京の文部省に赴任し(これ以前2度ほど上京しているが、いずれも学問を学ぶためで教師をしたという記録は発見できなかった)、1889(明治22)年より本郷真砂町にあった旧松山藩の学生寮である常磐会寄宿舎監督を兼務。
1891(明治24)年文部省を退官し、以後は常磐会寄宿舎の監督のみをつとめた。
文部省では主に学務に従事し、寄宿舎監督時代も併せ、日本橋で教師をしていたという確かな記録は発見できなかった。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
-
内藤鳴雪(鳴雪は俳号(俳諧の作者として用いる雅号)で、本名は素行(そこう))は、主に教育行政及び寄宿舎の監督に携わっていたが、一方で漢学に精通し、特に正岡子規門下生の俳人として著名である。門下生ではあるが、年齢は子規より鳴雪の方が21歳年上であり、逆に子規から「先生」と呼ばれていた。鳴雪は教育畑を歩んだ謹厳な人であったが、一方で非常にせっかちな性格で、ある時、友人と道後の温泉に行ったところ、足袋を履いたまま浴槽に入り、友人にそのことを指摘され、急いで足袋を脱いだとの逸話がある(以上は『新編子規門下の人々』(阿部里雪/著 愛媛新聞社 2004 千葉県立東部図書館所蔵)より)。主著に、前出した『鳴雪自叙伝』や、『鳴雪俳句集』(春秋社 1926)などがある。
- NDC
-
- 詩歌 (911 8版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000163543