レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年02月03日
- 登録日時
- 2012/10/18 12:59
- 更新日時
- 2012/10/24 18:25
- 管理番号
- いわき総合-地域31
- 質問
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解決
戦後、いわき市の美術界の展示が行われた①「マルトモホール(マルトモ書店内)」、②「草野ホール(草野美術ホール)」について知りたい。
開設時期や開設者、閉鎖したのはいつか?その規模などについて。
- 回答
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①「マルトモホール」について
・開設時期 昭和5(1930)年10月 落成
・開設者 マルトモ柴田書店創業者 柴田 徳二 氏
『懐郷無限』(斎藤伊知郎∥著・1978)P259によると、「大正7年12月創業、昭和5年10月に浜通り一のモルタル、オレンジ色の3階建ての洋館風の大店舗を作った。3階大ホールは、地方はじめての絵画展から洋風の結婚式場として利用度は高く、浜通り随一の偉観であった。さらに、昭和47(1972)年10月にはマルトモ三度目の化粧替えで、現在の大ビルを完成させた。」とありました。
『いわき民報』(昭和47年10月4日)には「豪華本展示予約販売会 ところ:マルトモ3階ホール」という広告があり、新築ビルにもホールがあったことが伺えます。
しかし、徐々に経営状況が悪化。『いわき民報』(昭和57年6月19日)には、「マルトモ近く整理」という記事がありました。
過去の住宅地図を見ると、昭和60(1985)年には「マルトモ書店」は消えてしまいます。以後、「マルトモ文具」で住所地に記載がありましたが、平成8(1996)年には空白になってしまいました。
以上より、閉鎖の時期を特定することはできませんでしたが、『いわき市史 第6巻 文化』の記述(P458,459,661,663)から、いわきの美術、音楽の発展において中心的な役割を担った施設であることが伺えます。
②「草野ホール(草野美術ホール)」について
・開設時期 昭和44(1969)年3月
・閉館時期 昭和54(1979)年5月14日
・経営者 草野 健 氏
『いわき民報』(昭和54年4月11日)に「いわき美術界開花の温床 草野美術ホール 惜しまれ来月半ば閉館」、同年5月8日「草野美術ホールに有終の美」という記事があり、ホールの歴史などについての詳しい記述がありました。これによると、10年間に226回の絵画展を開催するなど、いわきの美術界の発展を支えたホールとして、惜しまれつつ閉館したことが伺えます。
また、『いわき市史 第4巻 近代Ⅱ』P427にも若干ですが記述がありました。
参考までに、昭和47年10月の『いわき民報』内「会と催し」のコーナーでは、「平市民会館」「大黒屋しゃくなげ会館」等と並び「草野ホール」の催し案内が定期的に掲載されていました。
住宅地図(2010.2)を確認すると、現在も平南町に「草野ビル」はありますが3階のテナントは空になっているようです。
- 回答プロセス
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1.資料を調査
【資料①】『懐郷無限』
P258-259に「マルトモ柴田書店」の記事あり。
【資料②】『いわき市史 第4巻 近代Ⅱ』
P426-427にマルトモホール、草野美術ホールの記述が少しあった。
【資料③】『いわき市史 第6巻 文化』
P458,459,461,661,663にマルトモホール、草野美術ホールの名前を確認。
【資料④】『いわき民報・縮刷版』
・マルトモホール
昭和57(1982)年6月19日11面「マルトモ近く整理」
・草野美術ホール
昭和54(1979)年4月11日2面
「草野美術ホール惜しまれ来月半ば閉館」
同年 5月8日3面
「草野美術ホールに有終の美」
《参考》『磐城紳士録』にマルトモ書店・柴田徳二氏の記述あったが、ホールについては言及なし。その他、『いわき商業風土記』、『いわき今昔写真帖』、『いわきの100年』、『絵はがきの中の「いわき」』なども確認するが記述なし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 団体 (706 9版)
- 日本史 (210)
- 参考資料
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懐郷無限 写真で見るいわきの歴史 斎藤 伊知郎∥著
田久孝翁 ヤマニ書房 1978 K/210.6-1/サ - いわき民報縮刷版
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懐郷無限 写真で見るいわきの歴史 斎藤 伊知郎∥著
- キーワード
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- 展示ホール
- ギャラリー
- いわき美術史
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000112739