以下の資料を紹介。
・『芋井村誌』 [芋井村誌]編纂委員会[編] 芋井村 1957 【N212/276】 p.235「飯綱寮」の項あり。概要は下記のとおり。
上水内教育会において修練道場建設の計画がなされ、昭和17年に飯綱寮が建築され報国農場として郡下の青少年の錬成道場として尽くしてきた。
その後現在は夏期の林間学校として長水から更埴郡下に利用校が多く児童、生徒の錬成に利用されている。
・『長野県上水内郡誌 現代篇』上水内郡誌編集会編 上水内郡誌編集会 1979 【N212/93/3】 p.1417-1418 「飯綱寮・上水内教育会館の建設」の項あり。
飯綱寮は上水内教育会によって昭和19年5月30日に建設(竣工式)されたということや、飯綱寮建設の動機、建設経過、飯綱寮の日課、第二次世界大戦後の寮舎の活用などについて記載がある。(出典は後述の青木保米三 「飯縄寮について」『上水内教育』第17号)
・『上水内教育会史』 上水内教育会史編集委員会編 上水内教育会 1989 【N372/96】
p.295-301 「飯綱寮の建設と郡下青年の修練」の項
飯綱寮建設の経過の詳細と飯綱寮での生活精神、日課についての記載がある。竣工式は昭和19年5月30日(出典は『長野県上水内郡誌 現代篇』の記載と同じ)
p.534-537 「児童保養施設飯綱寮の開設」の項
p.534に、昭和19年に上水内教育会館建設資金を転用して建設された飯綱寮は、戦後、農場作業の中止、農場の委託苗圃化などにより、宿泊施設のして利用されることがほとんどなかったが、26年度から上水内郡小中学校児童生徒の保養施設として再生利用されるようになったとある。
p.710-717 「6 学童保養施設飯綱寮の閉寮」
p.716-717に、昭和54年10月に教育会常任委員会と飯綱寮運営委員会の合同委員会において55年度から飯綱寮の閉鎖を検討し、関係各機関の了解をとり閉鎖を決め、55年取り壊しとなったとある。
・青木保米三 「飯縄寮について」『上水内教育』第17号 1959年(昭和34年)7月25日 p.56-60
上記『長野県上水内郡誌 現代篇』の記載の出典資料で、より詳しく状況を知ることができる。上伊那教育会では、昭和17年秋全国青年学校生徒代表が東京に参集し、天皇陛下の親閲を受けたことをきっかけにして、それまで教育会館を作るために会員から拠出されていた資金を使い、飯縄寮建設を決議。昭和18年秋に建築にとりかかり、翌昭和19年5月30日に竣工式を行ったこと、また飯縄寮の建築のために芋井村が全面的に協力を惜しまず建築用材の一切を全く無償ともいうべき代金で提供したことや、戦後の寮の経営についての記載もあり、この記事執筆の時点では教育上の重要施設として活用されているという記載も確認できる。
・白沢 極 「飯綱寮について」 『上水内教育』 第63号 1980年11月 p.36-39
p.36 飯綱寮の写真掲載あり。
p.38 昭和45年度‐昭和54年度の利用状況の表がある。