レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2017年09月28日
- 登録日時
- 2017/12/06 17:57
- 更新日時
- 2018/04/09 13:11
- 管理番号
- いわき総合-地域525
- 質問
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解決
泉藩主・本多忠籌が老中になった際、登城の行列で掲げる槍の先に「赤玉」という飾りを付けることを許されたと聞いたが、それについて書かれた文献はありますか。
- 回答
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赤玉について書かれた資料は、2点ありました。
・『新編 江戸時代 磐城近隣諸藩の動向 上』(p.23に、泉城趾に建つ「赤玉本多」の記念碑(平成17年6月11日建立)の碑文が掲載)
→「奥州泉藩主、本多2代目本多忠籌侯は寛政二年(1790)四月、老中に就任。持槍二本を許され、登城の際は行列の先頭に立て、持槍二本のうち一本の素槍には太陽をあらわす「朱天目」。俗に言う「赤玉本多」を槍の穂先に飾り、威風堂々と登城し、その赤玉は昇る朝日に映えて、美しく見事であったと語り伝えられています。また、諸大名は「赤玉」を遠くに見たとき、忠籌侯に敬意を表して行列を道脇に寄せ、譲ったとも言われています。」
・『新編 泉風土記百選』カバー見返し部分
→上記資料と同様の赤玉の来歴と合わせて、形状についての具体的な数字(「玉は紅色漆塗、圓りは45糎(センチ)、編球状、柄の長さ14糎、径8糎位」)が記載されています。
ただ、これら資料にある赤玉の来歴について、出典が確認できませんでした。
また、『藩史大事典 第1巻』p.224によると、本多家が槍の先に球状の飾りを付けていたことがわかりますが、それを赤玉というのかは確認できませんでした。
- 回答プロセス
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上記回答のとおり。
『いわき市史』、『新訂増補 国史大系 続 徳川実紀 第一篇』、『新訂 寛政重修諸家譜 第11』、『本多忠籌侯伝』(黒田源六 著)、『郷土研究岩磐史談 第1巻』、『郷土研究岩磐史談 第2巻』、『玉露の歴史』(水沢松次 著)、『奥州泉藩主 本多家十二代 家譜御履歴』(水沢松次 編)、『泉の風土と歴史』(岡部泰寿 著)に赤玉に関する記述はありませんでした。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
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- 『新編 江戸時代 磐城近隣諸藩の動向 上』[K/210.5-1/イ-1・1111326540]
- 『新編 泉風土記百選』[K/291/ミ・1110037510]
- 『藩史大事典 第1巻』[K-210.5-0-ハ-1・1114545468]
- キーワード
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- 赤玉
- 赤玉本多
- 泉藩
- 本多忠籌
- 赤玉やっこ
- 朱天目
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000225962