レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年02月10日
- 登録日時
- 2016/01/28 10:44
- 更新日時
- 2016/05/10 18:23
- 管理番号
- 埼熊-2015-166
- 質問
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解決
星蹊園(熊谷市)にある天柱(テンチュウ)石、ソデフリ石の由来について知りたい。
加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉、家康、忍城主松平忠吉と伝わり、維新で忍城から星蹊園に移ったと言われる。その記録を確認したい。
- 回答
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由来について、以下の資料に記述があった。
『熊谷市史 通史編』(熊谷市史編さん室編 熊谷市 1984)
p185 「この朝鮮の役で加藤清正は、天柱石や振袖石などの珍石を彼の地から持ち帰って、秀吉に献上した。やがてそれが家康の手に移り、更に徳川の親藩である忍の松平家に渡っていたのを後に竹井澹如が譲り受け、玉の池に配したと言われているものが、今の星渓園にある。」
『熊谷の文化財』(熊谷市文化連合編 熊谷市文化連合 1978)
p144「星渓園」に「星渓寮」庭前にある「振袖石」と「天柱石」の由来に関する記述あり。
『新編熊谷風土記稿』(日下部朝一郎著 国書刊行会 1978)
p46「庭前には「振袖石」「天柱石」があり、これは加藤清正が朝鮮から持ち帰って秀吉に謙譲したもので大阪城にあったものを忍城主が貰い受け後に澹如の手に渡ったという」とあり。「ソデフリ」ではなく「フリソデ」となっている。
- 回答プロセス
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1 自館目録を〈熊谷 & NDC分類〈709〉〉で検索する。
『熊谷の文化財』(回答資料)
p145「入口にある星渓園記碑は、竹井耕一郎翁の撰文で(後略)」とあり。
2 熊谷市関係地誌を確認する。
『新編熊谷風土記稿』(回答資料)
『新編熊谷風土記稿 熊谷レポート 第2集』(日下部朝一郎〔著〕 熊谷市郷土文化会 1964)
p60「熊谷桜の石上寺」の項に「星渓園」の記述あり。
『埼玉ふるさと散歩 熊谷市』(新井寿郎編 さきたま出版会 1993)
p27「星渓園」の記述あり。
『埼玉歴史探訪』(埼玉県ウオーキング協会編 埼玉県ウオーキング協会 2008)
p114「星渓園と加藤清正」
3 《Google》を〈熊谷 & 星蹊園〉で検索する。(https://www.google.co.jp/ Google)
《熊谷市 観光・イベント情報》「星渓園」
「元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池が生じ、その池は清らかな水が湧き出るので「玉の池」と呼ばれ、この湧き水が、星川の源となりました。澹如翁が、ここに別邸を設け、「玉の池」を中心に竹木を植え、名石を集めて庭園としました。」
(http://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/seikeien.html 熊谷市)
4 《Google ブックス》を〈振袖石 & 熊谷〉で検索する。(https://books.google.co.jp/ Google)
『熊谷市史 通史編』(回答資料)
p184 天柱石と振袖石の写真あり。
ウェブサイトの最終アクセス日は2015年2月8日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 芸術政策.文化財 (709 9版)
- 参考資料
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- 『熊谷市史 通史編』(熊谷市史編さん室編 熊谷市 1984)
- 『熊谷の文化財』(熊谷市文化連合編 熊谷市文化連合 1978)
- 『新編熊谷風土記稿』(日下部朝一郎著 国書刊行会 1978)
- キーワード
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- 星渓園
- 振袖石
- 天柱石
- 熊谷市
- 加藤 清正(カトウ キヨマサ)
- 竹井 澹如(タケイ タンニョ、タンジョ)
- 豊臣 秀吉
- 徳川 家康
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 言葉
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187619