レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2006年07月22日
- 登録日時
- 2006/07/22 10:46
- 更新日時
- 2009/03/04 19:09
- 管理番号
- 山形県-2006-0042
- 質問
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解決
将棋駒の生産地として天童市が有名になったのはいつ頃からですか。また、将棋の由来も知りたい。
- 回答
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天童駒の名が知られるようになったのは、昭和になってからで、現在では全国生産高の約9割以上を製造し、天童は将棋駒のふる里とまでいわれています。
江戸時代末期、生活に困っていた天童の織田藩士を救うため、天童藩主織田信学(のぶみち)の用人吉田大八が、足軽らに手内職として製造を奨励したのに始まります。大八は米沢から二人の技術者を招き、駒の作り方と将棋のさし方を伝授させたと伝えられています。天童駒は本来、「番太郎駒」に代表される草書体の書き駒でしたが、大正初期、大阪から彫り駒の技法を導入し、今はこれが主流となり、高級駒の生産地としての評価も高まっています。また、毎年4月、第3土・日の2日間、天童市の舞鶴公園において「人間将棋」が年中行事として行われています。人間将棋は天童藩主が、人間を将棋の駒に見立てて対局したという故事を、昭和31年(1956年)に再現したものです。日ごろ恩恵を受けている将棋駒を、終日野外で遊ばせてやるという供養と、観光宣伝の目的を兼ねて行われます。
将棋はインドに起こり、日本には中国から遣唐使や入唐僧などによって、欽明天皇の頃伝来したといわれています。日本で現在の形の五角形に定まったのは、室町時代の末期といわれますが、専門棋士は江戸時代からのことです。暴れん坊将軍や大河ドラマでおなじみの徳川8代将軍吉宗は、大の将棋好きだったそうです。
吉宗の時から年に一度、江戸城での御前対局(御城(おしろ)将棋)の日が定められています。この故事にちなみ昭和50年(1975年)、日本将棋連盟では、その対局の日“11月17日”を「将棋の日」としています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 将棋 (796 9版)
- 参考資料
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天童市史 別巻上 地理・考古編/天童市史編さん委員会/編
日本将棋集成/窪寺紘一/著
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天童市史 別巻上 地理・考古編/天童市史編さん委員会/編
- キーワード
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- 将棋
- 天童
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000029653