「初花茶入」
●名称:唐物肩衝茶入(銘初花)(からものかたつきちゃいれ(めいはつはな))
●所蔵:徳川記念財団
●時代:南宋または元
●伝来:戦国時代
●解説
・古来唐物茶入の首座に位する名品として著名
・現存する名物茶入れの中で、最も高名なもの
・大名物
・柳営御物第一の名宝
・天下三肩衝の一つ(楢柴肩衝・新田肩衝)
・天下三肩衝のなかで、初花のみが残っている
・一般的には初花肩衝と呼ばれる
・銘は室町8代将軍足利義政命名とされ、形状釉色が優美婉麗で春の先駆けする初番の名花に似るためだという。また新田肩衝より壷の開きが早いということで命銘
・東山御物だった?→古来有名であるがゆえに、御物(東山御物)だと思われたが、天文期の名物器にわざわざ「能阿弥秘蔵の茶入である。御物ではない」と記載された。
・18代宗家の話によれば、初花肩衝は、本能寺の変、大阪の陣、明治維新の戦乱を逃れている。明暦の大火も逃れ、のちに防火蔵が造られ納められる。そのため維新の際に気づかれず徳川家にとどまった。東京大空襲では偶然千駄ヶ谷の邸宅に置いていたので罹災を免れた
・いささかの損傷もないことは奇跡に近い
●所有者の変遷
楊貴妃の油壷だったとも?
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能阿弥
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鳥居引拙(とりいいんせつ)…村田珠光の門人。茄子の茶入れを手放したのち、初花一種を楽しんだ。
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疋田宗観(ひきたそうかん)…京都の富商。大文字屋宗観、疋田栄甫とも。
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織田信長…永禄12(1569)年に東山名物召し上げの第一号となった。天正2(1574)の相国寺大茶会に飾られた(津田宗及の拝見記事あり)。
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織田信忠(おだのぶただ)…織田信長の長男。天正5(1577)年三位中将昇進祝いと家督相続として譲られる。天正6(1578)年初花で茶会を開く。天正10(1582)年本能寺の変により流出。
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松平念誓(まつだいらねんせい)…三河の松平一族のひとり。松平親宅(ちかいえ)。念誓は法名。初花肩衝、初花茶壺両方を所有し、由緒・伝来の混乱が起きるきっかけを作る。天正11(1583)年徳川家康に献上。その功績により蔵役、酒役そのほか一切の諸役を免除。
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徳川家康…天正11(1583)年4月松平念誓より献上されるが、その一か月後、豊臣秀吉に戦勝祝いとして贈る。
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豊臣秀吉…賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いに家康より贈られる→返礼の品として「不動国光(太刀)」を贈った(徳川実記・家忠日記に記述あり)。 天正15(1587)年、天下三肩衝が秀吉の元にそろう。初花が秀吉のものになったということが広まり、千利休も手紙でそのことを書いている。大阪城最初の茶会、道具揃え、など多くの茶会等に用いられた。茶会で初花を使用して見せることで、織田政権の後継者と示そうとした? 正親町(おおぎまち)天皇の天覧茶会にも使用。
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宇喜多秀家(うきたひでいえ)…五大老のひとり。関ケ原の戦いには西軍の主力として参戦している。秀吉の死後、遺物として相続。
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徳川家康…秀家の関ヶ原敗戦により再び所持。西軍の中心人物であった秀家が流刑ですんだのは、初花献上のおかげ? 夏の陣の前に家康の手に渡り、大阪城落城を切り抜ける。
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松平忠直(まつだいらただなお)…家康次男結城秀康の子。家康の孫にあたる。大阪夏の陣の手柄を立てた忠直に貞宗の佩刀とともに恩賞として与えた。
所領の加増のなかったことに激怒し、初花を鉄槌で砕き、匙ですくって、軍功のあった家臣に分け与え、乱気したといわれるが、事実ではない。→菊池寛「忠直卿行状記」が生まれる。→初花現存。作り話か?肩衝でなく、茶壺の逸話か? 徳川宗家18代の話では、この時は忠直の手元にはなく、越後高田城内の珠光緞子の袋の中に納まっていた→長男の光長が高田藩主となり越後にうつっていたから。
同名の葉茶壺である「初花茶壺」が天正12年に松平念誓から家康に献上され、それが忠直に大阪城での勲功として下賜された。忠直は同じ時期に「初花肩衝」と「初花茶壺」を所持することになった。葉茶壺たる初花茶壺を下賜された忠直は、「領地ではなく、茶壺をもらっても家臣に報いることはできない」と言い、放り投げた。割れた初花茶壺は修繕され、越前松平家に伝承されて現存する。
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徳川秀忠…忠直乱行のため配流(元和9年・忠直出家一伯を名乗る)となり、その間将軍家に献上したか? 「寛永九年御物目録」に初花肩衝の掲載はない。
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松平一伯(忠直)…忠直が出家後一伯を名乗る。寛永9(1632)年ごろには初花肩衝を戻されたか? 寛永末に毛利秀元が編纂した名物記では「松平一伯所持」となっている。
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松平光長…忠直長子。改易後、相続。寛文年間(1661-73)に編纂された『新古珍器集(しんこちんきしゅう)』では、松平越後守光長所持とされている。
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女二の宮…高松宮。光長の姪(光長妹・亀姫次女)。光長越後騒動で改易、初花肩衝を預かる。
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松平光長…美作津山十万石として復活。放免後、所有を戻される。
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松平備前守…松平備前守宣富(のぶとみ)。松平長矩のこと。光長の養嗣子。
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徳川綱吉のち徳川宗家所有…長矩が津山藩主になったお礼として献上(お代四万両にて進上)。以後徳川宗家の重宝として代々伝えられた。柳営御物となる。結果的に明暦大火も回避してから、江戸城に入った。
「初花茶壺」
●名称:初花茶壺(はつはなちゃつぼ)
●所蔵:越葵文庫 福井市立郷土歴史博物館保管
●種類:貼花文瀬戸焼(ちょうかもんせとやき)
●時代:室町時代
●解説
◇初花の茶壺はお茶壺道中に使われた茶壺の一つ
・「お茶壺道中」とは、3代家光が定めた、毎年新茶のとれる頃に、幕府用の茶を宇治から取り寄せるための行事。
・籠に茶壺をのせて運ぶ。
・この行列と道中で行き会えば、たとえ大名であっても道を譲らなければいけなかった。
・「ずいずいずっころばし」はこのことについて歌っている。
◇「茶壺の涙雨」という伝説が残っている。
・ある夏長雨のため大草字山寺(現在の幸田町)で山崩れがあり、この土中から壺が見つかった。壺を洗うと、水が赤く染まった。松平念誓がこの壺を譲り受ける。壺に食べ残した瓜があることに気づいて壺をのぞいたところ、そのまま保存されていた。念誓はこの壺を「初花」と名付け、自家製の茶を摘めて家康に献上した。その後「お茶壺道中」が習わしとなる。この茶壺が藤川の宿を通るとき、必ずと言っていいほど雨が降る。「茶壺の涙雨」と語り伝える。
◇『額田郡伝説集』では、「初花の小壺と一対の茶壺」の話としてある
・壺は天正11(1583)年に土呂で作られ、「初花の小壺」と「一対の茶壺」の話が生まれた。
●所有者の変遷
松平念誓(まつだいらねんせい)…初花肩衝、初花の茶壺両方を所有し、由緒・伝来の混乱が起きるきっかけを作る。天正11年「初花の小壺」とともに「一対の茶壺」を家康に献上する。天正14年三河目代となる。
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徳川家康…天正11年初花茶壺を献上される。この献上品に対し、家康は返礼として知行を与えようとするが、念誓はこれを辞退。その後家康は酒造の独占権を認めるとともに、初花茶壺に入れる茶を毎年作るように命じ、土呂に屋敷を与えた。これにより念誓は、土呂、菅生、長沢などで茶園や酒造業、金融業を営むことになった。
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松平忠直…徳川家の安泰のため「家康の孫」としての自負のある忠直はうっとうしい存在だった。幕府への不満が募っていた。同名の葉茶壺である「初花茶壺」が天正12年に松平念誓から家康に献上され、それが忠直に大阪城での勲功として下賜された。忠直は同じ時期に「初花肩衝」と「初花茶壺」を所持することになった。忠直が打ち砕いたとされる茶壺は修復され、「初花の茶壺」として福井市立郷土歴史博物館に保管されている。「初花の茶入」と「初花の茶壺」は、よく混同されるので注意が必要。忠直が打ち砕いたという伝説は、越前松平家に茶壺が伝わっており、それに大疵があるために後世の人が創った話であるとされている。元和9年に将軍秀忠によって隠居を命じられ、配流となり、剃髪して一伯と称する。長男光長に越前75万石相続。
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(由緒書き誤って肩衝に移動か)
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越前松平家…茶壺は修復され、越前松平家に伝承された。