若狭めのう細工の歴史は、下記資料に記載があります(刊行年順に紹介)。
享保年間の人物名は文献によって若干異なりますが、「高山喜兵衛」と記載されている資料が多く、福井県のホームページ「福井の文化財」でも「高山喜兵衛」と記載されています。
『福井県遠敷郡遠敷村産業誌』(福井県遠敷郡遠敷村 1915)
p66-69「瑪瑙細工」項あり。”今を去ること凡そ壹百九十餘年前遠敷村の人喜兵衛と云ふ者浪華の或る眼鏡屋にて金剛砂の使用法を習ひ”と記載あり。出典ならびに参考文献の記載無し。
『若狭遠敷郡誌』(遠敷郡教育会/編 帝国地方行政学会 1922)
p417「瑪瑙細工」項あり。"享保の初頃遠敷村高山喜兵衛大阪に於て金剛砂の使用法を習得”と記載あり。出典ならびに参考文献の記載無し。
なお、本資料全文が、国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開されています。p417は、250コマ目に該当します。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876697 (最終確認日:2020/06/13)
『カラー 日本の工芸9 玉・ガラス』(淡交社 1978)
p36に”享保年間(1716~36)に浪花の眼鏡屋に奉公して玉磨きの技術を習得した高山喜平が若狭へ帰って瑪瑙細工をはじめた”と記載あるほか、p144「若狭」に古代鰐族の到来が今日のメノウ細工につながる旨や高山喜平の技術開拓のエピソードなどの記載もあり。出典ならびに参考文献の記載はありませんが、巻末「取材協力者一覧」に「若狭瑪瑙商工業協同組合」の記載あり(同組合は平成11年に解散しています『小浜市遠敷郷土誌』p208より)。
『日本の伝統工芸6 北陸』(日本アート・センター/編 ぎょうせい 1985)
p120-121に「若狭めのう細工」項あり。約1260余年前の古代鰐族が若狭めのう細工の発祥である旨と享保年間に高山喜兵衛が焼き入れ発色技法を発見した旨記載あり。出典ならびに参考文献の記載はありませんが、巻頭「資料・取材協力」に「福井県立若狭歴史民俗資料館」と「若狭めのう会館」の記載あり(若狭めのう会館は平成9年に閉館しています『小浜市遠敷郷土誌』p208より)。
『ふくいの工芸』(原子光生/著 福井県文化振興事業団 1990)
p199-206「若狭瑪瑙細工」項中に沿革について詳細な記載あり。p199-200に”鰐族により古代大陸文化の一つである玉作り技法が上陸して、今日の若狭瑪瑙細工の基盤を形成したものだと考えられます。”と記載されているほか、p201に”若狭瑪瑙細工独特の火窯による焼き入れ着色技法は、享保年間に当地の高山喜兵衛が浪花(大阪)で丸玉製造の技を習得して帰郷後、独創的な火窯による瑪瑙石焼き入れの技術を開発したのが始まりであるといわれています。”と記載あり。巻末「参考文献」に「日本の工芸・玉ガラス(淡交社)」と記載あり。
『小浜市史 通史編上巻』(小浜市史編纂委員会/編 小浜市 1992)p1011「めのう細工」項あり。”めのう細工についてはほとんど史料が残されていない。ここでは『遠敷郡誌』の記述にしたがって紹介しておこう。(中略)享保の初めころ遠敷村の高山喜兵衛が大阪において金剛砂の使用法を習得”と記載あり。
垣東敏博「登録有形民俗文化財「若狭めのうの玉磨用具」について」
(『平成17年度館報』(福井県立若狭歴史民俗資料館 2006 p1-7)
p1に「若狭めのう細工の歴史」項あり。『福井県遠敷郡遠敷村産業誌』から引用して解説。
『小浜市遠敷郷土誌』(遠敷郷土誌編纂委員会∥編 遠敷地区ふるさとづくり推進会 2010)
p201-211「めのう細工業」項あり。p201-202に”何時ごろから始まったか確かな文書はないが、伝えるところによると約千三百年前にさかのぼり(中略)また玉を信仰するわに族が当地にきて丸玉の製法を伝えたのが始まりとも言われている。しかし確かなところでは享保年間の初めころ、遠敷村の高山喜兵衛が浪速において金剛砂を用いての研磨法を習得”と記載あり。
そのほか、福井県ホームページでも関連情報の記載がありますが、出典は明記されていません。
「福井の文化財 若狭めのうの玉磨用具」福井県教育庁生涯学習・文化財課
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/yukeimin/ken-wakasameno.html (最終確認日:2020/06/13)
”享保年間(1716~1735)に遠敷村の高山喜兵衛が、大坂で研磨の技法を、津軽でめのうの焼き入れの技法を習得し、村に戻って玉磨を始めたことに由来するといわれている。”と記載あり。