①男鹿の鹿、及び鹿狩りに関して、以下の資料に記述があった。
○『秋田沿革史大成・上巻』加賀谷書店 1973 p.105~p.139 "(宝永)三年正月十六日男鹿島鹿狩アリ。而シテ該島鹿ノ産タル昔シ秋田家領セシ頃之ヲ狩リ尽シタルモ、遷封ノ後義隆ノ当時鹿雌雄四足ヲ放チ、後来武具ノ用ニ供スル皮革ヲ得ンコトヲ図ラレタリ" この他、正徳二年正月三千余頭、享保六年二月二千七百余頭、享保十五年正月八千余頭、寛延二年三月三日五千七百頭、宝暦元年辛未年正月十五日凡九千二百二十、宝暦四年二月二十九日五千百六十、安永元年二月五日二万七千百頭(この内黒白の鹿二頭)を狩猟した記述があった。
○『秋田沿革史大成・下巻』加賀谷書店 1973 p.286 明治5年10月男鹿山の鹿狩り禁止令を取り消すという旨の秋田県の布達があり。
○『男鹿年表』男鹿市立船川中学校社会部 1956 慶安二年(1649)と萬治元年(1658)に男鹿に鹿を放った記述があり。宝永三年(1706)正月、正徳二年(1712)正月、享保六年(1721)二月、享保十五年(1730)正月、寛延二年(1749)三月、宝暦元年(1751)正月十五日、宝暦四年(1754)二月二十九日、安永元年(1772)二月五日に男鹿で鹿狩りをしたとの記述あり。
○『男鹿寒風山麓農民手記』吉田三郎著(『日本常民生活資料叢書第9巻』三一書房 1972所収) p.32~35「鹿の話」に住民による鹿狩りの記述あり。
○『男鹿市史』男鹿市 1974 p.156~162「男鹿の鹿」の項に「男鹿の鹿狩の覚」(宝永二年)、農作物食害のため、男鹿の鹿狩りに限り許可するという「町触控」(天明三年)、「男鹿の鹿取候事御停止の訳」(延宝四年)他、鹿狩りに関する古文書が転記されている。 p.529~530「全島の概況並びに風俗」の項に男鹿の鹿は秋田家(安部氏)の時代に一度根絶していること、佐竹領になってから鹿を放ち殖えたこと、食害により度々鹿狩りを行ったことを説明している。
○『男鹿市史・上巻』男鹿市 1995 p.683~685「三、食害と鹿狩り」 男鹿における鹿の食害と、それにより何度か藩主導の大規模な鹿狩りが行われたことを、『国典類抄』の史料を元に説明している。
○「男鹿の鹿狩りと藩内の狼狩り」長岐喜代次著(『北方風土』37号(1999.1)p.94~97掲載) 「生類憐みの令」と「男鹿の鹿狩り」について『国典類抄』より記録を拾ったもの。
②『男鹿市史』男鹿市発行1974、『男鹿市史・上巻』男鹿市発行 1995、「男鹿寒風山麓農民手記」吉田三郎著(『日本常民生活資料叢書』第9巻所収)を参照したが、男鹿地方における犬、狼狩りの記録は見付からなかった。
『秋田マタギ文書』中の「男鹿鹿狩文書」にある「犬皮依頼その他」の宛名の千代良左衛門については、『男鹿鹿狩文書附狐肝御用並ニ熊膽皮値段』武藤鐵城著 に "千代良左エ門の祖は、芦名家臣で、後に佐竹北家へ山役として奉公。狩猟は山役の管轄にあった故、良左エ門が又鬼共を引率して行ったもの" とあり、元々、男鹿が地元ではなく、角館の佐竹北家の所領に在住し狩猟関係の統括をしていた者が、男鹿の鹿狩りにマタギを率いて遠征したものと思われる。「犬皮依頼その他」は、「男鹿鹿狩文書」に含まれているが、その内容は山役の千代良左衛門宛に犬皮を所望しているもので、「男鹿地方で犬・狼狩りをした」という根拠とするには弱いと思われる。なお、千代良左衛門の地元である角館・仙北地方には狼がよく出たようで、狼狩りの記録や伝承が残っている。〔参考資料:『狼の伝承と狼狩記録』武藤鐵城著、『犬の話』武藤鐵城著、『秋田マタギと動物』秋田魁新報社 1967〕「犬皮依頼その他」で言及されている犬皮も、千代良左衛門の地元で狩猟されたものと考えることができる。
③以下の資料に記述があった。
○『男鹿の昔ばなし(昔話・伝説・ほか)』男鹿市教育委員会 1993 p.10~13「赤神と黒神のけんか」 十和田の女神を取り合い、男鹿半島の赤神と竜飛崎の黒神がけんかをした。竜を飛ばして襲う黒神に対し、赤神は無数の鹿を繰り出して迎え撃った。 p.13~14「狼を助けた肝煎」 石川宇一郎という肝煎が、兎の骨を喉にひっかけ苦しんでいる狼を助けたところ、それ以来、戸賀村へ行く度に狼は往復お供をするようになった。p.48~49「九百九十九段の石段」 漢の武帝が、白い鹿のひく飛車に乗り、五ひきのこうもりをひきつれて男鹿に来た。
○『男鹿風土誌』吉田三郎著 秋田文化出版社 1977 p.32~34「妻恋の鹿ぞ鳴く山」 男鹿にやって来た漢の武帝は、連れてきた雄鹿とともに日本海の彼方の故郷に残してきた妻を想い「足曳の山の秋風寒き夜になお妻恋の鹿ぞ鳴くなり」と詠んだ。p.35~39「鹿のくどぎ節」 110年位前までは、男鹿に多数の鹿が居り、3月頃には村の若者が鹿狩りに出かけた。男鹿の民謡にも「鹿のくどぎ節」として謡われている。多数居た鹿は、秋田氏の時代に狩り絶やされ、佐竹藩時代に3頭放されたものがまた殖えていき、幾度も鹿狩りを行ったことが記録されている。