『守山市史 上巻』P146~によると
「『日本書記』持統天皇七年十一月己亥の条に、平城京から沙門法員、善住、真義らを遣わして、近江国益須寺の醴泉を飲ましめた旨を記している。」
「醴泉の涌水場所は益須郡の都賀山と称するところであり、益須寺に人びとを停宿させて治療にあたらせたところ全快したもの多く、よって、益須寺に水田四町と布六十端を献じ、また、益須郡の調役、雑徭を一年間除いた。醴泉を発見した葛野の羽衝と百済の土羅々女に褒賞をとらせたという」
『守山市誌 地理編』P526によると
「日本書記持統天皇7年(693)と8年の条にある記述の概要は、「近江国益須郡都賀山に清水の湧き出る醴泉があり、多くの病人が益須寺に泊まって治療している。この泉を発見した人に布や鍬の褒美を与え、郡の税金を免除し、役人の位階を1つ上に上げる」とあります。この醴泉はどこか特定できませんが、浮気、立入、吉身、梅田、泉などの各町に野洲川の伏流水が湧出していた池や沼沢地と考えられ、守山市の水源地帯のことです」
『滋賀の伝説』P86によると、
「甘香池(あまがいけ)(醴泉(こざけのいずみ))-守山市-
持統天皇の時代に、守山の地に、あまくて美しい水(醴)がわき出ていた。それを聞かれた天皇は、善住と真義という二人の僧をつかわして調べさせ、飲ませると病気にもきくことがわかった。
この池を甘香池とよび、池の水がいろいろな病気にきくというので、ほうぼうの土地から、たくさんの人たちが病気をなおしにやってきた。
多くの病人がなおったので、天皇は、この地方をおさめている役人の位を上げ泉を発見した葛野羽衝と百済土羅々女という人にたくさんのほうびをあたえた。」
『近江輿地志略 新註』P790によると、
「醴泉之蹤至今在寺門南、俗称曰甘香池」