レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2020年11月06日
- 登録日時
- 2021/07/31 17:53
- 更新日時
- 2021/08/27 16:17
- 管理番号
- 堺-2021-039
- 質問
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解決
南海高野線北野田駅(堺市東区)の南西、野田共同墓地のあたりに明治頃までお寺か神社があったらしいが、その名前が知りたい。
- 回答
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八坂神社と思われる。元は牛頭(ゴズ)神社であったが、明治の神仏分離令により仏教由来の牛頭天王ではなく、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀ることになり、八坂神社に社名変更された。明治26年には牛頭神社の社殿や常夜燈は現在の大悲寺内に移設され、事実上の信仰場所はこちらに移ったが、建物としての八坂神社は菅生(スゴウ)神社に合祀される明治40年までは今の野田共同墓地あたりにあったのではないか。
『登美丘町史』(登美丘町史編纂委員会/編1954年)110頁「南野田西方の野田城址…通称穂出籬(ほでがき)という所があり、その中央を南海高野線が南北に貫通し、線路西側に南野田鎮守の八坂神社が祀られていた。」
『河内国 野田城の歴史』(堺市野田校区まちづくり協議会野田城プロジェクトチーム/編2013年)10頁「南野田の牛頭神社も同様、表向きは素戔嗚尊を祀る「八坂神社」と改称(中略)明治40年に菅生神社本殿に合祀されています。」
『南野田の歴史』(西田稔/著2011年)6頁「野田城内に南野田の氏神である牛頭神社があった。明治26年に南野田地域会館の西側、大悲庵の敷地内に移され今も南野田で守護している。(中略)明治初期に八坂神社と社名変更したこの神社は、大阪府史跡名勝天然記念物の記録では、明治40年10月30日官命により菅生神社に合祀したとある。しかし、菅生神社にはその記録、史実はなく、当時の村人たちが社名を牛頭神社に戻し、こそっと今の地に移設したものと思われる。」
(東図書館)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 神道 (170 8版)
- 参考資料
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西田 稔/[著] , 西田 稔. 南野田の歴史. 西田 稔, 2011-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I084546044-00 -
堺市野田校区まちづくり協議会野田城プロジェクトチーム [著] , 堺市野田校区まちづくり協議会. 河内国野田城の歴史. 野田校区まちづくり協議会, 2013.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024348300-00 -
登美丘町史編纂委員会 編. 登美丘町史. 登美丘町, 1954.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000932486-00
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西田 稔/[著] , 西田 稔. 南野田の歴史. 西田 稔, 2011-00.
- キーワード
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- 野田共同墓地
- 八坂神社
- 牛頭神社
- 野田城
- 菅生神社
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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まず『登美丘町史』p160-161の「野田城址古今比較地図」を見ると現在の野田共同墓地の付近に寺院の地図記号があり、「法蓮寺」という表記。法蓮寺かと思ったが、同資料110頁「平安時代からの法蓮寺という古寺があったが、(中略)この寺は野田氏の菩提寺であったが、落城の際焼失してしまった。」とある。
『南野田の歴史』巻末付図「河洲丹南郡南野田絵図」寛政2(1790)年作成には「牛頭天皇宮」の表記はあるが、法蓮寺の表記はない。上記の記述と合わせると法蓮寺は早い時期に姿を消していると考えられる。一方の「牛頭天皇宮」は牛頭神社のことであろう。牛頭神社の八坂神社への変遷は回答に挙げた資料の記述の通り。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000302523