レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019年6月11日
- 登録日時
- 2019/11/25 18:29
- 更新日時
- 2020/02/05 15:38
- 管理番号
- 中央-1-002123
- 質問
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解決
長野県の諏訪大社の近くにある「守屋山」の名前の由来を知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介した。
・『諏訪大社』 三輪磐根/著 学生社 1978年
・『諏訪の神』 戸矢学/著 河出書房新社 2014年
・『諏訪学』 山本ひろ子/編 国書刊行会 2018年
・『日本山岳ルーツ大辞典』 竹書房 1997年
・『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』 平凡社 2002年
- 回答プロセス
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■ 自館資料を「守屋山」で検索。また、諏訪大社に関する本を確認する。
・『諏訪大社』 三輪磐根/著 学生社 1978年
p37「守屋山は古く地の神である洩矢神を祀り、神聖視していたと思われる。(中略)新来の神族と先住の守矢族のあいだに、長い間の葛藤ののちに、ある種の妥協が成立して、神氏は大祝として祭の頂点にたち、守矢氏は神長官として政を司ったのではなかろうか」
・『諏訪の神』 戸矢学/著 河出書房新社 2014年
p102「神長官・守矢氏は、氏神は始祖・モリヤ神で、それとは別に古き神・ミシャグジを崇拝していたということである。そして、かつてはこの裏手から守屋山への登山道が続いていたという。それは、守屋山がミシャグジであることを意味する一つの手掛かりかもしれない。守矢家と守屋山とは同じ「モリヤ」であることからも特別な関わりがあるだろうことは容易に推測される」
p134「敗走する物部の一族は各地に散った。諏訪とは別に、伊那に入った者たちもいた。彼らはこの地域の霊山の山麓に守屋社を祀った。この霊山が守屋山と呼ばれるようになったのはそれ以来である。霊山を守屋山と呼ぶことに本宮の同族との合意もあったであろう」
・『諏訪学』 山本ひろ子/編 国書刊行会 2018年
p149「守屋山東峰の祠は先住の統治者の信仰の証であろうか諏訪信仰の中の一社として扱っているのであるが、その守屋山の呼び名は『信濃奇勝録』(四 佐久ノ人 井出道自著)に「守矢氏物部の守屋の一男弟君と号る者、森山に忍び居て後、神長の養子となる永禄年中より官の一字を添て神長官と云ふ、森山に守屋の霊を祀り今守矢が岳と云ふ弟君より当神長官まで四十八代と云」とあって、守矢氏と物部守屋氏が結びついた伝承と守屋山の古名「森山」が示されている。大和盆地の御諸山という呼び名と同様、ムレとかモリという神域を意味する山であるという自覚が、この山名にはあると田中基はいう」
■ 山、地名に関する参考資料を確認する。
・『日本山岳ルーツ大辞典』 村石利夫/編著 竹書房 1997年
p570「守屋山」の項目
【山名のルーツ】として「守屋とは住民を護るの意で、高遠側に守屋神社があることによる山名」と書かれている。
・『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』 平凡社 2002年
p295“守屋山”の説明の中で「山頂には守屋の神祠があり、南山麓の片倉村(現高遠町片倉)の北には物部守屋大連を祀ると称されている産土神の守屋神社がある」と書かれている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 10版)
- 日本 (291 10版)
- 参考資料
- キーワード
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- 守屋山
- 諏訪大社
- 地名_長野県
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 地名
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000267484