レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20191107
- 登録日時
- 2019/12/26 00:30
- 更新日時
- 2020/03/26 10:48
- 管理番号
- 0401001291
- 質問
-
未解決
江戸時代、石高一万石以上を大名、一万石未満を旗本と身分分けしていたが、この基準が「一万石」である理由はなにか?
- 回答
-
今のところ確たる理由が載っているものは見つかっていないが、推察的に理由が書かれている資料を見つけた。
『江戸幕府と譜代藩』煎本増夫/著,雄山閣出版,1996年
p.20にこのように書かれている。
「ここで興味深いのは右の史料に「大名役」とあることであろう。もちろんこれは領主の格式として旗本と区別する意味で用いられているのである。大名と旗本のちがいはいうまでもなく、一万石以上、以下が基準となるわけだが、この基準(格式)が成立したのは、実は家光政権下の寛永十年代である。すなわち、寛永十二年(一六三五)の武家諸法度改定の条文に、「乗家」(「乗輿」の資格となる対象)の範囲が一万石以上となり、その後変更をみない。つまり一万石以上を大名の格式として規定しておこうということであろう。これは寛永期ごろにおいて一万石以上の知行高をもつ譜代家臣が増えた結果、これらを大名として格づける必要にせまられたのであろう。」
これが、今まで調べた資料の中で一番理由に近い推察であった。
また、この文章の注記に挙げられている資料
『幕藩体制史の研究 権力構造の確立と展開』藤野保/著,吉川弘文館,1975年には
p.175~「徳川一門・上層譜代の「大名」化」やp.208~「徳川一門・譜代大名の創出」という見出しがあり、石高数が万石になっていく家臣の数の推移などが書かれていて、上記文章を裏付けるものとして紹介されている。
自館所蔵はないが、参考になりそうな資料やレファ協の事例も併せて紹介した。
①『史料解読「武家諸法度」を読む:幕府大名統制の根幹を探る!(『歴史読本』59巻1号(通巻895号)p.146-153,佐々悦久/著)
②レファレンス協同データベースより
事例:江戸時代に制定された「武家諸法度」のうち、「元和令」「寛永令」「天和令」の内容を比較できる資料を探しています~(後略)
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000188937(2020年1月19日最終確認)
- 回答プロセス
-
依頼者自身インターネットでも調べたがわからなかったとのことだったが、キーワードや大まかな説明を得るためにまずはインターネットで情報収集した。
ネット上には「一万石以上を大名」という言葉はたくさん出てくるが、なぜ一万石なのかという基準の説明は見つけられなかった。
そのため「石高」「武家諸法度」「寛永」など、資料を調査する際の参考となるキーワードをいくつか集めて所蔵資料を調査した。
自館資料では「大名」「石高」に関する資料をいろいろ集めて調査した。
インターネットと同様に「一万石以上を大名」という言葉はよく出てきたが、その理由は載っていなかった。
調べた資料以外にも載っているものがあるかもしれないと、Googleブックスでも調査した。
キーワードに「大名」「一万石」「基準」と入れて検索したところいくつも資料がヒットし、その中から自館所蔵のあるものを確認した。
そのうちの1冊『江戸幕府と譜代藩』という資料に、回答に挙げた通り少しその“理由に近い文章”を見つけた。
さらにその参考文献資料『新訂 幕藩体制史の研究』にも理由そのものは書かれていないが、上記の“理由に近い文章”を裏付ける大名の石高数についての文章が載っていた。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
-
- 江戸幕府と譜代藩,煎本 増夫/著,雄山閣出版,1996.3 (p.20|0116422908|/210.5/イ/)
- 幕藩体制史の研究,藤野 保/著,吉川弘文館,1975 (p.175~,p.208~|0112798566|/210.5/フ/)
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000271564