レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2022年3月6日
- 登録日時
- 2022/01/14 10:30
- 更新日時
- 2022/06/01 11:46
- 管理番号
- 県立長野-21-211
- 質問
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解決
上総国飯野藩の藩主となった保科氏の系図で「正則」中世以前の部分が見たい。諏訪の神家とつながりがあるらしい。
- 回答
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『保科氏800年史』 牧野登著 歴史調査研究所 1991 【N288/148】
「2、保科氏の発祥」p.22-29の項目で、『信濃史源考』をもとに、以下2つの説を検討している。
1 信濃中部(中信)を拠点とする諏訪系
2 信濃北部(北信)を拠点とする井上系の二流
この2項目を中心に調査で確認できた資料を紹介した。
なお、『保科氏800年史』(前述)でも以下のページに家系図の掲載がある。
p.25 「信濃源氏井上掃部助頼季流略系図」
p.27 「神家保科氏略系図」、「保科氏略系図」
1. 諏訪の神氏を祖とする資料
『古代氏族系譜集成 上巻』宝賀寿男編著 古代氏族研究会 1986【288/145/1】
p.258-260「13 神人部宿祢(二)」に「行遠」の文字があり、その子「行信」の隣に「東鑑、建暦三年二月十六日条 保科次郎」とある。また、12代先に「正則」の記載あり。
行遠から数えて11代目の「易正」は先代「正信」と縦二重線でと結ばれており、「易正」とある右側に「弾正左衛門神助」左側に「実荒川四朗 神易氏二男(亻易宗)住伊那郡保科」とある。
また、参考文献として、『百家系図稿』巻6 「保科」、『諏訪史料叢書』巻28「神家系図」・「神氏系図」、『上高井郡誌』、『蕗原拾葉』「保科略系」が挙げられている。このうち、『百家系図稿』を除く3冊については当館資料で確認ができたため、回答の中で紹介する。
なお、この系図の中に、『保科誌』に「行遠」の子として記載のある「友衛」と「行時」の名前は確認できなかった。
『諏訪史料叢書 復刻 第5巻』諏訪教育会編 中央企画 1984【N241/7a/5】
「神家系図」p.143-149のp.145に「保科四朗大夫源二武者 行遠」とあり。
「神氏系図」p.151-172のp.155に「行遠」とあり、「保科四郎大夫」と添えられている。また、子どもとして「行信 源二武者」「行通 保科悪三郎」と続いている。
2. 井上を祖とする資料
『系図纂要 第12冊』名著出版 1974【288.2/ケイ/12】「源朝臣姓保科」p.31-34
江戸時代末期にまとめられた系図集をまとめたもの。
書き出しの人物は「國行」で、はしがきとして右側に「井上掃部(後略)」左側に「保科弾正」とあり、この次代の人物が「正則」となっている。
『清和源氏740氏族系図 第3巻』千葉琢穂編著 展望社 1985【288.3/チタ/3】
p.69に「頼季流、鎮守府将軍頼信が末男掃部助井上頼季の末孫、筑後守正則は信濃国(長野県)高井郡保科庄にうまれ、保科を家号とした。家紋、九曜、梶の葉」とあるが、保科氏の系図にあたるものは確認できなかった。
『長野県上高井郡誌』上高井郡教育会編纂 千秋社 1999【N214/89】
p.145-148「保科氏系図」
「井上頼季」を祖とする系図。7代先に「忠長」とあり、「井上太郎后保科太郎又星名太郎」と添えられている。
この6代後に「正則」の名前が確認できる。
3. その他
『蕗原拾葉 中巻』長野県上伊那郡教育会 名著出版 1975【N208/2-1/2】「保科略系」p.649-677
『蕗原拾葉』は江戸時代後期にあたる1808-1824年頃収集された文書をまとめた文献。ただし、もとの資料がいつごろ成立したのかまでは確認できなかった。
書き出しの人物が「源光利君」とあり、はしがきとして右側に「保科太郎」とある。
『清和源氏740氏族系図 第3巻』(再掲)
「頼季流井上氏系図」p.289-290に「矢井守太郎 忠長」「為光盛猶子井上相伝矢井氏祖」とあり。
また、『信濃の井上氏』には下記のとおり記述があり、それ以前に遡ることについても言及されている。
「井上氏と保科郷とのつながりはそれ以前はるかに遡り、すでに一一世紀後半井上氏祖満実の高井郡入部いらいのことと考えられる(72頁「芳美御厨考」参照)」
- 回答プロセス
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1. 概要を確認する
『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県』角川書店 1996【N288/158】
p.918に「神氏系の豪族に保科氏がある。保科御厨の地を開発した武士と考えられるが、平安末期、信濃源氏井上氏の配下となり、保科太郎は井上光盛に従って木曽義仲の軍に加わった」とある。
『保科誌』保科誌刊行会編纂委員会 保科誌刊行会 2016【N212/553】
p.69「保科氏の誕生」に以下の記述がある。
「仁安年間(1166-69)諏訪神社大祝神為仲の曾孫行遠が英多郷関屋から保科郷堀の内(上和田)に移り住み、諏訪社を創建した(「東山神社明細帳」による)。行遠は保科四朗太夫と称し、保科御厨を支配し、保科党を率いた。しかし、子の友衛と行時が亡くなり、神家保科氏は絶えた。元暦元年(1184)に井上源氏の一族である太郎忠長が保科家を再興して、武家保科氏の祖となった(『尊卑文脈』による)」
2. 当館のレファレンス事例「県立長野-19-070」[最終確認日:2022/05/31]でも同様の調査を行っているため参考に下記を紹介することとする。
『保科氏800年史』 牧野登著 歴史調査研究所 1991 【N288/148】
以下のページに家系図の掲載あり。
p.25 「信濃源氏井上掃部助頼季流略系図」
p.27 「神家保科氏略系図」、「保科氏略系図」
また、「2、保科氏の発祥」p.22-29の項目で、『信濃史源考』をもとに、以下2つの説を検討している。
1 信濃中部(中信[諏訪が含まれる南信の誤記と思われる])を拠点とする諏訪系
2 信濃北部(北信)を拠点とする井上系の二流
この2つに沿って資料を整理することとした。
『清和源氏740氏族系図 第3巻』 千葉琢穂編著 展望社 1995 【288.3/チタ/3】
p.69「保科氏」の項目に「頼季流、鎮守府将軍頼信が末男掃部助井上頼季の末孫筑後守正則は信濃国(長野県)高井郡保科庄に生まれ保科を屋号とした」とあり。
p.289-290「頼季流井上氏系図」を確認するも、「末孫筑後守正則」は確認できず。
『寛政重修諸家譜 第4』続群書類従完成会編・刊 1980【288.2/タミ/4】
「清和源氏 頼季流 井上」p.286-290のp.286中段に「忠長」の記載があるが、「太郎 寛永第二の井上系図に、矢井守太郎につくる」とのみあり。「保科」にかかわる記述は確認できず。
3. 2以外の資料を探す。
家系図に関する資料が集まっている288.1の書架を見るなどして、「保科氏」に関する資料を探した。
『信濃の井上氏』 片山正行著 まつやま書房 2014 【288.2/カマ】
p.322-323「保科氏の出自」では『保科氏800年史』と同じく、井上氏を祖とする「尊卑文脈」の系譜と諏訪の神家を祖とする「神家保科氏系譜」をあげ、検討を加えている。
『古代氏族系譜集成 上巻』宝賀寿男編著 古代氏族研究会 1986【288/145/1】
p.258-260「13 神人部宿祢(二)」に「行遠」の文字があり、その子「行信」の隣に「東鑑、建暦三年二月十六日条 保科次郎」とあり。
『保科誌』に「行遠」の子として記載のある「友衛」と「行時」の名前は確認できず。
行遠から数えて12代目の「易正」(弾正左衛門神助 実荒川四朗 神易氏二男(亻易宗)住伊那郡保科)は縦二重線で先代「正信」と結ばれている。
参考文献として挙げられていた『百家系図』、『蕗原拾葉』、『長野県上高井郡誌』の3点を確認する。
『百家系図』が所収されている資料を当館では所蔵していないため、『百家系図』をベースにまとめられている資料として『系図纂要』を参照した。
『国史大系 第59巻 尊卑分脉 第2篇』黒板勝美編輯 吉川弘文館 2001【210.08/クカ/59】p.502、p.510
『国史大系 第60巻上 尊卑分脉 第3篇』黒板勝美編輯 吉川弘文館 2001【210.08/クカ/ 60-1】p.209
いずれも「保科」に関係する記述は確認できなかった。
4. その他
質問者が見たというホームページの参考文献として「神氏系図」が挙げられていたため、諏訪関連の書籍を探す。
『諏訪史料叢書 復刻 第5巻』諏訪教育会編 中央企画 1984【N241/7a/5】
「神家系図」p.143-149のp.145に「保科四朗大夫源二武者 行遠」とあり。
「神氏系図」p.151-172のp.155に「行遠」とあり、「保科四郎大夫」と添えられている。また、子どもとして「行信 源二武者」「行通 保科悪三郎」と続いている。
<その他調査資料>
『信濃の古武士』丸山 楽雲著 2009【N288/236】
『千葉県の歴史 通史編近世1(県史シリーズ)』千葉県史料研究財団編集 千葉県 2007【213.5/チバ/4】
『千葉県の歴史 通史編近世2(県史シリーズ)』千葉県史料研究財団編集 千葉県 2008【213.5/チバ/5】
『千葉県の歴史 資料編近世3(県史シリーズ)』千葉県史料研究財団編集 千葉県 2001【213.5/チバ/21】
『千葉県の歴史 資料編近世4(県史シリーズ)』千葉県史料研究財団編集 千葉県 2002【213.5/チバ/22】
『高遠町誌 人物篇』高遠町誌人物篇編纂委員会編 高遠町誌刊行会 1986【N242/79/3】
「保科氏略系(高遠保科氏)」p.490
「正則」以降の記載のみ。
『藩史大事典 第2巻』木村礎[ほか]編 雄山閣出版 1989【210.5/キモ/2】
飯野藩「藩主の系図」p.540 「正貞」以降の記載のみ。
- 事前調査事項
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カウンターで『寛政重修諸家譜 第4』続群書類従完成会編・刊 1980【288.2/タミ/4】「清和源氏 頼季流 保科」p.353-358の項を紹介したところ、これより前の時代の部分が見たいとのこと。
諏訪の神家とつながりがあるとインターネットで読んだ。これに関する資料を探しているとのこと。
利用者持参資料は下記ウェブページであることが分かった。
「To KAZUSA」[最終確認日:2022/05/31]
「上総国飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)」に「仁安年間(1166~69)に郷名を以って保科四郎太夫行遠と称し、諏訪社を建てたとされる。」とあり。
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288)
- 参考資料
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牧野登著 , 牧野, 登. 保科氏800年史. 歴史調査研究所, 1991.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I003110686-00 -
宝賀寿男編著 , 宝賀, 寿男. 古代氏族系譜集成 上巻,中巻,下巻. 古代氏族研究会, 1986.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I004593025-00 -
諏訪教育会/編 , 諏訪教育会 , 諏訪教育会. 諏訪史料叢書 復刻 第5巻. 中央企画, 1984-00.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059270440-00 -
宝月, 圭吾, 1906-1987 , 岩沢, 愿彦, 1921-. 系図纂要 第12冊 (清和源氏20-27). 名著出版, 1974.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001225083-00 -
千葉琢穂 編著 , 千葉, 琢穂, 1927-. 清和源氏740氏族系図 第3巻. 展望社, 1985.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001775128-00 -
[上高井郡教育会] [編纂] , 上高井郡教育会. 長野縣上高井郡誌 復刻版. 千秋社, 1999.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002837447-00 , ISBN 4884772407 -
長野県上伊那郡教育会 , 長野県上伊那郡教育会 , 長野県上伊那郡教育会. 蕗原拾葉 中巻 複刻版. 名著出版, 1975-09.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059269792-00
-
牧野登著 , 牧野, 登. 保科氏800年史. 歴史調査研究所, 1991.
- キーワード
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- 保科(ホシナ)
- 武士
- ルーツ
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000310694