レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/09/04
- 登録日時
- 2018/12/23 00:30
- 更新日時
- 2018/12/23 00:30
- 管理番号
- 6001034344
- 質問
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解決
東京板橋区の乗蓮寺にある冒険家・植村直己の墓碑(石碑)には「地球には/もう彼はゐない/けれども生きてゐる/修身に化けて/植村直己は/私たちの中に/生きつゞける」という詩人・草野心平の追悼詩が刻まれているが、その詩はそれが全文なのか、何かの詩を一部切り取ったものなのか知りたい。
- 回答
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この追悼詩はこれが全文かと思われる。詩集には収録されてないようで、『草野心平日記 第7巻 1982-85』に、墓碑に刻まれた詩(以下、追悼詩)の元となったと思われる「墓碑銘」と題する4行の詩が記載されていた。ただし、3行目「植村直己は/修身に化けて」の部分が、墓碑では語順が逆になり「修身に化けて/植村直己は」となっている。
以下に回答プロセスを記す。
まず最初に、植村直己が消息を絶った1984年2月以降に刊行された『草野心平全集 12巻』(1984年5月刊)を確認したが、収録されていなかった。以降全集は刊行されていないため、1984年以後に刊行された草野心平の詩集を確認したところ、同じ詩は発見できなかったが、最後の部分がよく似た次の詩が見つかった。
・『幻景 : 詩集』(草野心平/著 筑摩書房 1985.4)
p78-80 「植村直己は生きつづける」
ただし、この詩は29行にわたる長い詩で、最後の3行「植村直己は生きてゐる。/植村直己は一つの修身に化けて。/私のなかに生きつづける。」の部分が追悼詩とよく似ているものの、追悼詩が「私たち」なのに対し、この詩は「私」となっており、同じものではない。一部抜粋して組み合わせた詩かとも考えたが、追悼詩の前半部分はこの詩には登場しない。この詩が詩集に収録されるまでに著者による改変があった可能性を考え、念のため、植村が消息を絶った1984年2月以降、捜索の打ち切り、国民栄誉賞授与などの大きな動きがあった同年4月頃までの日記を調査した。
・『草野心平日記 第7巻 1982-85』(草野心平/著 思潮社 2006.3)
p304-305 1984(昭和59)年4月19日に、「植村直己は生きつゞける(原題「植村直己追悼」) 」として、1984.4.21の日付けのついた29行の詩が掲載され、掲載誌は『別冊文春』とある。p323の5月25日の項に「5文春臨時増刊「植村直己」を見る、読む。(自分の詩も出てゐる。)」とあったため次の初出資料も確認した。
・『植村直己・夢と冒険(『文芸春秋』臨時増刊)』(文芸春秋 1984.6)
初出:p4-5 「植村直己は生きつづける」
しかし、いずれも『幻景 : 詩集』掲載分と同じ詩で、特段改変についての記述なども見当たらなかった。
追悼詩は草野心平の詩集等の資料に収録されている様子がないため、今度は石碑の建立に関する情報を調査したところ、1985年6月2日毎日新聞東京版朝刊に「植村直己は私たちの中に生きつゞける:草野心平さんが墓に詩 板橋の寺で一周忌法要」という記事があり、文中に質問の詩が引用されていた。そこで、改めて草野心平の当時の日記を確認したところ、前述の『草野心平日記 第7巻 1982-85』のp477、1985(昭和60)年5月12日の最後尾に「墓碑銘」と題するほぼ同じ内容の詩を見つけたが、一部語順が一致しなかった。日記の前後を確認したが、語順が変更されたことについての記述は特に見当たらなかった。
しかし、続くp478の5月14日15日16日(まとめて書かれている)に「3植村直己の石碑の表の文章書き、墨書する。(サチ子さん、十五日に池袋で毎日の記者と植村公子さんに渡す。)」とあることから、「墓碑銘」が追悼詩の元になった詩であると考えた。
[事例作成日:2018年9月4日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 詩歌 (911 8版)
- 参考資料
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- 幻景 草野/心平∥著 筑摩書房 1985.4 (p78-80)
- 草野心平日記 第7巻 草野/心平∥著 思潮社 2006.3 (p304-305,477-478)
- 植村直己・夢と冒険 文芸春秋 1984 (p4-5)
- キーワード
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- 追悼詩(ツイトウシ)
- 墓碑銘(ボヒメイ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000249077