レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年02月05日
- 登録日時
- 2011/03/10 16:24
- 更新日時
- 2011/03/10 16:24
- 管理番号
- 9000007176
- 質問
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解決
『美都満多』の著者・石母田文について知りたい。
- 回答
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石母田彣(いしもだぶん)は、明治時代に近藤喜則が南部村(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に創立した私塾・蒙軒学舎(もうけんがくしゃ)の教授。英学士で仙台の出身。東京小石川の同人社の教授だったが、明治14(1881)年に招聘され、蒙軒学舎の教授となった。
- 回答プロセス
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1.国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(http://porta.ndl.go.jp/)で当該資料著書『美都満多』(石母田文著 近藤喜則 1888年)の書誌情報(http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/839856)を確認。著者の名前の読みは「いしもだ ぶん」、発行者は「睦合村(山梨県):近藤喜則」とあり、睦合村は現在の山梨県南巨摩郡南部町である。
2.次の人名辞典類には「石母田文」の掲載はなし。
・『人物レファレンス事典』郷土人物編 全2巻(日外アソシエーツ編・発行 2008年)
・『人物レファレンス事典』明治・大正・昭和<戦前>編(日外アソシエーツ編・発行 2000年)
・『明治人名辞典』全2巻(古林 亀治郎編輯 日本図書センター 1987年)
・『明治人名辞典』2 全2巻(日本現今人名辞典発行所編 日本図書センター 1988年)
・『明治人名辞典』3 全2巻(成瀬麟編 日本図書センター 1994年)
3.自館システム、GeNii、山梨県立文学館web OPAC、山梨県立博物館web OPACで、「美都満多」「石母田文」を検索するが未ヒット。
4.『美都満多』の発行者である「近藤喜則」について調査。自館システムで、件名「近藤喜則」では所蔵資料は未ヒット。書名「近藤喜則」×郷土資料で検索すると、次のものがヒットした。
・『郷土史にかがやく人々』第2集(青少年のための山梨県民会議編・発行 1969年)→p68に「…当時の三椏栽培にたいするかれの積極的な意欲は、明治二〇年に彼の著した『美都満多』に具体的に示されている」という記述がある。
・「峡南の郷土」第46集(峡南郷土研究会 2006年3月)に「近藤喜則と殖産社(1)」(川島文男著)があるが、『美都満多』、石母田文に関する記述はない。
・「峡南の郷土」第47集(峡南郷土研究会 2007年3月)に「近藤喜則と殖産社(2)」(川島文男著)があり、p20に「喜則は、また「みつまた」と題する一書を出版して各方面に配付している。これは蒙軒学舎の教師石母田彣に命じて編集させたもので…」という記述があった。
5.自館システムで「蒙軒学舎」を検索すると、次のものがヒットし、関連の記述があった。
・「峡南の郷土」第40集(峡南郷土研究会 2000年3月)→「「南部蒙軒学舎」考」(高山一行著)p25上段に「石母田彣」の名がある。
・『近代山梨の光と影(山日ライブラリー)』(福岡哲司著 山梨日日新聞社 2006年)→「蒙軒学舎とその時代」の章があり、p49に「『美都満多』という研究誌も発刊している」、p59に「…明治十四年から仙台出身の石母田某…」との記述がある。
6.『山梨県史』通史編5 近現代(山梨県編集 山梨日日新聞社 2005年)のp102で「蒙軒学舎」について調査したところ、次の資料が参考文献として挙げられていたので内容を確認した。
・『山梨県教育百年史』第1巻(山梨県教育委員会編・発行 1976年)→『美都満多』、石母田文に関する記述はない。
・『南部町誌』下巻(南部町編集・発行 1999年)→第8編「教育と文化」第1章「学校教育」の「蒙軒学舎」の項を見ると、近藤喜則の略歴の中に「明治二十年には「美都満多」という一書を編さんし、大蔵省印刷局の命で全国規模で、三椏栽培法、製皮法、種子改良について研究や増殖の啓蒙活動を展開した」との記述がある。また、p409には「「蒙軒学堂記」…(蒙軒学舎教授)石母田彣」の掲載があり、「…当時東京小石川の同人社の教授であったが招かれて蒙軒学舎の教授に就任した石母田彣(英学者)の…」という記述が、p414上段には「十四年には宮城県人石母田彣を…(中略)…当地方では得難い教師を招聘している」という記述がある。また「すぐれた教師陣」の紹介として「石母田彣-英学士で仙台の人小石川同人社の教授であったが請われて蒙軒学舎の教授となった」と書かれている。
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『南部町誌』下巻(南部町編集・発行 1999年) (p409-410,p414,p415)
- キーワード
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- 「美都満多」
- 石母田文
- みつまた
- 地場産業
- 蒙軒学舎
- 南部町
- 近藤喜則
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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※『美都満多』の本文を確認すると、「題言」の最後に「仙台 石母田彣」とあるので、次の資料を調査するが、関連の記述はなかった。
・『宮城県史』第35巻 総目次・総索引(宮城県編 宮城県史刊行会 1987年)→人名索引に「石母田文」はなし
・『宮城県百科事典』(河北新報社編集・発行 1982年)→関連の記載なし
・『角川日本姓氏歴史人物大辞典』第4巻(宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会編著 角川書店 1994年)→「石母田」の項に参考となる記述なし。
※「みつまた」に関する図書を調査するが、石母田文について分かる記述はなかった。
・『三椏及三椏紙考』(王子製紙編・発行 1940年)
→p31「当局において三椏皮原料を使用し初めたる当時は、主に山梨、静岡地方により其供給を仰ぎたり。殊に山梨県会議長たりし故近藤喜則氏は三椏の栽培及び供給に関し、頗る功労ある人なりと聞けり」と、『美都満多』の発行者である近藤喜則についての記述がある。
p98-99三椏の生産地として山梨県に関する記述と「郡別産額統計表」がある。
p324「三椏文献目録」の中に「美都満多 石母田文 明治二十一年」が紹介されているが、書名・著者名・発行年以外の情報の記載はない。
・『明治農書全集』第5巻 特用作物(農山漁村文化協会 1984年)には「増補挿図三椏栽培録」(瀧正古著 ※静岡県)の複刻が掲載されている。改題を確認すると「三椏は明治時代を通じて発展したので、これに関する著書が多く刊行された」とあり、その主なものについて書名をあげているが、その中に『美都満多』はない。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土(人物-近代以降)
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000081599