レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20200822
- 登録日時
- 2020/11/29 00:30
- 更新日時
- 2020/12/06 11:15
- 管理番号
- 201484
- 質問
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解決
古賀精里という人物が ①大阪にいた時期 と ②塾を開いたか否か の2点を教えて下さい。
- 回答
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御質問の件について、次のとおり回答します。
1.「古賀精里が大阪にいた時期」については、次の資料に記載がありました。
(1)『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』 梅澤 秀夫/著 出門堂 2008年
P179 古賀精里・侗庵関係略年譜
安永4年(1775) 冬、大坂に到着、半年後京都に向かう
安永7年(1778) 精里、京都から大坂に移り、尾藤二洲・頼春水らと講学し、朱子学派に帰属する。
安永8年(1779) 精里、佐賀に帰郷
(2)『徳川後期の学問と政治』 眞壁 仁/著 名古屋大学出版会 2007年
P61-62 安永四年「十二月」に、京都への遊学途上、彼はまず「半年間」大坂に滞在して片山北海が盟主となっていた混沌社に出入りして、筱崎三島らと交わった。~中略~その後京都へ移った精里は、友人の頼春水の回想記録によれば、まず福井敬齋に、その後西依成齋に師事したとされる。~中略~学問修行を重ねる精里は、安永七(一七七八)年六月に再び大阪に赴き、大坂農人橋二丁目に居を構え、その閏七月に朱子学者を中心として大坂で結成された「作文会」にも参加した。しかし、大坂滞在中に「脚疾」を患い、遊学期間半ばの翌八年九月二〇日、乗船して佐賀への帰藩の途につく。
2.「古賀精里が大阪で塾を開いたか」については、次の資料に記載がありました。
(3)『西南地域史研究 第4輯』西南地域史研究会/編集 秀村 選三/編集 文献出版 1980年
P44-52「作文会」 (P44-45) 安永七年閏七月、精里の僑居に二洲・春水ほか二、三の同志が集まって、月一回の作文会を開催することを決めた。
(1)『早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・侗庵』 梅澤 秀夫/著 出門堂 2008年
P19 「精里は京都に約二年滞在した後、大坂に移っている。この大坂で尾藤二洲、頼春水らと出会った。尾藤二洲は伊予川之江(愛媛県)出身の儒学者で、この時は大坂で塾を開きいわゆる町儒者として細々と暮らしていたが、ずっと後の寛政三年(一七九一)に、精里に先立って昌平坂学問所の教官に登用されている」とあり、こちらの資料には大阪で塾を開いたのは尾藤二洲との記載があります。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 九州地方 (219)
- 参考資料
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(1)梅澤秀夫 著 , 梅沢, 秀夫, 1948-. 早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・[ドウ]庵. 出門堂, 2008. (肥前佐賀文庫 ; 3)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009407892-00 , ISBN 9784903157078 -
(2)眞壁仁 著 , 眞壁, 仁. 徳川後期の学問と政治 : 昌平坂学問所儒者と幕末外交変容. 名古屋大学出版会, 2007.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008536637-00 , ISBN 9784815805593 -
(3)西南地域史研究会/編 , 西南地域史研究会. 西南地域史研究 第4輯. 文献出版, 1980.
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I004887660-00
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(1)梅澤秀夫 著 , 梅沢, 秀夫, 1948-. 早すぎた幕府御儒者の外交論古賀精里・[ドウ]庵. 出門堂, 2008. (肥前佐賀文庫 ; 3)
- キーワード
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- 古賀精里
- 作文会
- 尾藤二洲
- 頼春水
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000289952