レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年09月12日
- 登録日時
- 2013/09/12 21:39
- 更新日時
- 2013/09/12 21:47
- 管理番号
- 20130912-11
- 質問
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解決
張作霖について知りたい。
- 回答
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張作霖 【ちょうさくりん】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96 (2013/09/12確認)
世界大百科事典 第2版
ちょうさくりん【張作霖 Zhāng Zuò lín】 1875‐1928
近代中国の軍人。奉天(今の遼寧)省海城県出身。字は雨亭。貧農の家に生まれたが,父親ゆずりのばくち好きで正業につかず,やがて〈緑林〉(土匪)に投じて頭角を現した。日露戦争に際しては,機を見て日露双方のスパイをつとめたといわれる。巧みな処世術と投機の才を武器に,辛亥革命前後の動乱に乗じて身をおこし,一代で奉天軍閥を築き上げた張は,13年間にわたって中国東北地方に君臨したのみでなく,関内をもうかがって軍閥戦争(第1,第2奉直戦争)を繰り返した。
張作霖(ちょうさくりん) Yahoo!百科事典[日本大百科全書(小学館)]
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96/ (2013/09/12確認)
[現地読み:チャンツオリン]
(1875―1928)
中国の軍閥。字(あざな)は雨亭。奉天(ほうてん)省(現、遼寧(りょうねい)省)海城県の人。馬賊から身をおこし、日露戦争では日本軍の別働隊として暗躍。のち清(しん)朝に帰順。辛亥(しんがい)革命のとき、奉天(現瀋陽(しんよう))市内に入り警備にあたる。1916年、奉天将軍の段芝貴(だんしき)を追って督軍になる。1918年、東三省巡閲使、その後、黒竜江、吉林(きつりん)両省を支配下に収めて、東三省全体に君臨する奉天軍閥を形成した。1920年安徽(あんき)派・直隷(ちょくれい)派の争いに介入し、北京(ペキン)政界に進出。1924年、第二次奉直戦争に大勝すると、彼の勢力は大幅に伸長し、その支配領域は華北、華東を経て遠く江蘇(こうそ)にまで及んだ。その後、軍閥孫伝芳(そんでんほう)、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反発、および部下の郭松齢(かくしょうれい)の反乱があり、一時、東北に戻った。1926年、呉佩孚(ごはいふ)と結んで馮玉祥を追い安国軍総司令と称した。1927年4月、北京のソビエト大使館を捜索、そこにいた李大釗(りたいしょう)らの中国共産党員を殺害した。同年6月、陸海軍大元帥を称し、北京政府を掌握した。1928年、国民党の北伐軍の進撃を受け、やむなく東北への撤退を決意し、6月、座乗列車が奉天郊外の皇姑屯(こうことん)付近で日本の関東軍により爆破され死んだ。・・・
ちょうさくりん【張作霖】 国史大辞典
Chang Tso-lin
一八七五 - 一九二八
中国、奉天派軍閥の首領。字雨亭。一八七五年奉天省(遼寧省)海城小洼村生まれ。・・・
[参考文献]
常城主編『張作霖』、園田一亀『張作霖』、馬場明「田中外交と張作霖爆殺事件」(『歴史教育』八ノ二)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 中国 (222 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 政治史.事情 (312 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 張作霖
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000137069