レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2014/05/05 11:21
- 更新日時
- 2014/05/13 14:32
- 管理番号
- 鳥栖参-058
- 質問
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解決
JR長崎本線の分岐が、鳥栖駅になった理由が知りたい。久留米駅も候補だったのに、なぜ鳥栖が選ばれたのか、そのいきさつや関連するエピソードなどはないか。
- 回答
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分岐点について記載のある資料は以下の通り。
①A092.1 ト『栖 第52号』P.76~ /2013年 鳥栖郷土研究会
→「分岐点誘致合戦のライバルは久留米だったようです」との記述あり。内容、理由については触れていない。
②A092.1 ト『栖 第13号』P.53~ /1988年 鳥栖郷土研究会
→同上
③A092.1 ト『栖 16-20(合本)』17号P.30~ /1993年 鳥栖郷土研究会
→八坂甚八氏が鳥栖に誘致した旨の記述あり。
④A092.1 ト『鳥栖市史』P.720~ /1973年 鳥栖市
→もと田代の予定だったものが鳥栖に変わった経緯や理由については、資料的に十分つまびらかでないとの記述あり。
⑤A092.1 ト『鳥栖市誌 第4巻』P.50~ /2009年 鳥栖市教育委員会
→「分岐点の変遷」の項に、鳥栖市でわかっていることのすべてが書いてあるとのこと。(市教育委員会談)
⑥A092.7 フ『福岡県史 通史編近代 産業経済(一)』P.957~ /2003年 西日本文化協会
→福岡県内の鉄道政策の紆余曲折がわかる。
⑦R686.21 セ『日本国有鉄道百年史 2』P.607 /1997年 日本国有鉄道
→博多―久留米間の建設について記述あり。
⑧R686.21 セ『日本国有鉄道百年史 4』P.538 /1997年 日本国有鉄道
→長崎線の工事について記述あり。
⑨R686.2 ハ『博多駅市5年のあゆみ』P.7,18,27 /1977年 博多駅85年史編纂委員会
⑩A092.1 ト『とすに貢献した人びと』P.22 /1994年
→八坂甚八が鳥栖に誘致した旨の記述あり。
・分岐点の変遷
田代(あるいは水屋)→鳥栖への変遷・・・⑤が詳しい。鳥栖に残っている資料については、⑤に書いている事が全てとのこと。(市教育委員会談)
その背景には八坂甚八氏の功績があった・・・①,②,③,⑩
・久留米が分岐点ではない理由について
明確な文献は無いのではないか。(線路が)筑後川を2回渡らないといけない事が理由との話はあるが、言い伝えの域とのこと。(市教育委員会談)
・当時の紆余曲折がわかる資料
⑥が詳しい。他には⑦,⑧,⑨にも記載あり。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (09 9版)
- 運輸.交通.観光事業 (68 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 鳥栖駅
- 久留米駅
- 長崎本線
- 分岐
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000152974