レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/03/09
- 登録日時
- 2011/07/28 02:00
- 更新日時
- 2011/08/03 09:41
- 管理番号
- 千県中千葉-2011-0005
- 質問
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未解決
千葉県南房総市三芳村(みよしむら)にある智蔵寺に、武田信勝の位牌があると聞いたが、その寺は三枝氏の菩提寺とのこと。武田信勝と三枝氏にはどのような関係があったのか。
- 回答
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武田信勝と三枝氏について記述された資料は、見つかりませんでした。
・房総武田氏については主に次のような資料がありましたが、三枝氏についての記述は見つかりませんでした。
(1)『房総武田氏の興亡』(府馬清著 崙書房 1979)
(2)『房総武田物語 房総の名族』(府馬清著 昭和図書出版 1976)
(3)『戦国大名房総武田氏と信玄 知られざる甲斐・上総史』(永嶋信恒著 千葉日報社 2000)
・三枝氏について次のような資料がありました。
『三芳村史』(三芳村 1984)p372-373に次のような内容の記述があります。
1638年旗本三枝勘解由守昌(さえぐさかげゆもりまさ)が安房国安房郡、平郡、朝夷郡のうちで一万石を賜って大名に列した。守昌は山名に陣屋を置いたといわれ、智蔵寺を菩提寺としたが、寛永16(1639)年に病没。三枝氏は甲斐国の豪族で、24代虎吉は武田信虎に仕えたが、武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、1624年逝去。その嗣子が守昌。
『三芳村史』p460には「智蔵寺は曹洞宗の小本寺で夷隅の真常寺末である。安房国の初期封建大名三枝守昌の菩提寺で、守昌とその子諏訪頼増の墓がある」との記載があります。
『三芳村史』p832-836に智蔵寺の由緒の要約として「開山并先師季譜」(1708)「開山世代年譜誌」(1824)「当山暦住年譜簿」が紹介されており、それぞれ内容は異なるようです。開基については「多くの疑問点があり今後の研究を待たないと判然としない」と記載されています。
最後の「当山暦住年譜簿」は明治末年に書き写したもので、「当山開基は霊徳院殿従四位下前甲信太守英林道傑大居士、俗名武田次郎三郎源信勝」とあります。武田次郎三郎源信勝の注釈として「この信勝は有名な武田信玄の孫で、父勝頼と共に天目山で討死にしたことになっている」と記載があります。
上記3冊を含めて智蔵寺文書は、『三芳村史編纂資料 2』(三芳村 1981)に所収されています。
- 回答プロセス
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武田信勝については、次の資料や人物事典等に様々な記載あり。
(1)『房総武田氏の興亡』(府馬清著 崙書房 1979)
(2)『房総武田物語 房総の名族』(府馬清著 昭和図書出版 1976)
(3)『戦国大名房総武田氏と信玄 知られざる甲斐・上総史』(永嶋信恒著 千葉日報社 2000)巻頭の「上総国庁南武田氏関係生没年表」によると武田信長(1400-1477)の三男に武田信勝(1420-?)。p198-201に「信勝(真里谷(まりやつ)武田氏二代 真里谷氏初代 1448-1523)」とあり。
(4)『コンサイス日本人名事典』(第5版 三省堂 2009)p808に武田信勝(1567?-1582)あり
(5)『日本人名大事典 4』(平凡社 1979)p102に武田信勝(1564-1582)あり
- 事前調査事項
- NDC
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- 各宗 (188 9版)
- 日本 (281 9版)
- 参考資料
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- 『房総武田氏の興亡』(府馬清著 崙書房 1979) (9200264270)
- 『房総武田物語 房総の名族』(府馬清著 昭和図書出版 1976) (9200301919)
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『戦国大名房総武田氏と信玄 知られざる甲斐・上総史』
(永嶋信恒著 千葉日報社 2000) (0200720230) - 『三芳村史』(三芳村 1984) (9200270732)
- 『三芳村史編纂資料 2』(三芳村 1981) (9200270723)
- キーワード
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- 智蔵寺
- 千葉県-南房総市(旧・三芳村)
- 武田信勝
- 三枝氏
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000089294