レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009年06月09日
- 登録日時
- 2010/12/03 17:00
- 更新日時
- 2011/01/21 15:34
- 管理番号
- 山形県-2009-0022
- 質問
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解決
山形県出身の海軍中将「佐藤鉄太郎(さとうてつたろう)」の顔写真の掲載された資料はあるか。
- 回答
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当館所蔵の資料から、下記の資料をご紹介します。
資料② P125~126 佐藤鉄太郎の説明と写真が掲載されています。
資料③ 巻頭 晩年の佐藤海軍中将ほか、家族写真やイギリス留学時代の写真が掲載されています。
資料①④には、佐藤鉄太郎の説明のみ掲載されていました。
- 回答プロセス
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「佐藤鉄太郎(さとうてつたろう)」について調べる。(資料①②③より)
慶応2年(1866)7月13日羽前国西田川郡鶴岡城下の高町に生まれた。父は平向勇次郎、母は四方恵(よもえ)である。
平向家は庄内藩の武士であったが、断家によって士族の籍を失ってしまう。家名再興に努めたが藩の許しがなく、そこで跡取りがおらず絶家となる筈の御給人佐藤安之家の株を買い、鉄太郎を佐藤家の養子として士族の籍を回復した。父、勇次郎が早逝したこともあり、鉄太郎は母四方恵の厳しく、かつ慈愛に満ちた教えにより成長した。
明治13年、朝暘学校を卒業し、西田川郡中学校に進学後、東京への遊学を望み、明治17年9月4日念願の海軍兵学校に入学した。総員51名中6番の好成績であった。明治24年8月には海軍大学校に入学、翌年7月卒業。同年12月海軍大尉に昇進する。
砲艦「赤城」の航海長として日清戦争に参加する。日露戦争でも第2艦隊参謀として日本海海戦を戦う。明治32年から英米にそれぞれ1年ずつ滞在して海戦史と作戦の研究に没頭した。その結果を海軍部内に提唱したのが、明治43年に書かれた『帝国国防論』である。「海主陸従論」(※)を唱えたことでも有名。軍拡を主張し、軍縮反対の立場をとったが、加藤友三郎海相とそりが合わず、大正12年予備役に編入された。昭和17年3月4日没
※「制海権を握るための軍備を第一にする」という考えのこと
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 9版)
- 海軍 (397 9版)
- 参考資料
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- 資料①日本海軍将官辞典/福川秀樹/2000(397.21/フク)
- 資料②日本海軍指揮官総覧/新人物往来社戦史室編/1995(397.21/シン)
- 資料③佐藤鐵太郎海軍中将伝/石川泰志/2000(289.1/サト)
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資料④戦略論大系 9 佐藤鐵太郎/戦略研究学会編/2006(Y391.3/セン/9)
※( )は当館の請求記号です。
- キーワード
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- 佐藤鉄太郎
- 海軍
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000074708